デジタル社会に生きるということ

アトムからビットへ

こう言ったのはMITメディアラボ創始者のニコラス・ネグロポンテだ。物質であるアトムから情報であるビットへのシフトが始まっていることを彼は繰り返し伝えた。

アトム(物質)とビット(情報)の根本的な違いを説明する

<中略>

世界的な貿易は伝統的にずっと、アトムをやりとりすることで成り立ってきた。

<中略>

税関を通るときに申告するのはアトムについてで、ビットは関係ない。デジタル録音した音楽でさえ、流通はプラスチックのCDの形で行われ、パッケージングや輸送、在庫のために相当な費用がかかっている。

この状況がいま、急速にかわろうとしている。これまで音楽は、プラスチックというアトムに録音してから運ばれていた。人の手でのろのろと情報を扱う他の媒体、本や雑誌、新聞、ビデオカセットなども同様である。ところがいまでは、電子的データを光の速度であっという間に、しかも安価に送れるようになった。この形式だと、情報はどこからでも自由にアクセスできる。

<中略>

アトムからビットへという変化に後戻りはない。もう止めることはできない。

『ビーイング・デジタル - ビットの時代 』 ニコラス・ネグロポンテアスキー発行

2001年に書かれた「ビーイング・デジタル」でネグロポンテは上のように言っている。もともと形を持たない情報を伝播するために物質を利用していた文明は、デジタル技術の発達とともに、情報をデジタル情報で運ぶようになる。これが彼の主張であり、10年経った今、その通りのことが起きている。

このデジタル化は物質で情報を伝播していた市場を破壊する。彼が言うように、音楽はCDという物質ではなく、ネットを通じて安価に一瞬にして送れるようになったため、既存の音楽ビジネスは大きく変わりつつある。米国ではすでにCDショップは無くなりつつある。アーティストによってはYouTubeなどのサイトでプロモーションビデオを公開し、極めて安い価格でオンラインでのみ楽曲を販売するということもある。中には収益はライブやグッズ販売が中心というアーティストもいる。

テレビや新聞、雑誌などもデジタル化の波に飲まれ、ネットへの対応を図りかねている。ネットへのシフトは必然であると分かっていながらも、ネットでの収益がまだ既存ビジネスにおけるそれを置き換えられるだけのものに育っていなため、移行を性急に行うことは出来ない。米国でもニューヨーク・タイムズのように、舵取りに苦労している例が多くある。

デジタルは文化も破壊する

デジタル化によって伝統や文化が破壊される。
そう主張する人は多い。

電子書籍の例をとっても、日本語特有の文字文化をデジタルでは再現出来ないという。EPUB3の日本語拡張仕様において縦書きやルビ、圏点などのサポートが出来るようになったが、それでも活版印刷における高品質の日本語サポートは行えない。漢字ひとつとってもIVS(Ideographic Variation Sequence)のサポートが無ければ異体字さえまともに表示出来ない*1。そもそもフォントの種類が活版印刷ほど豊富ではない。

音楽も同じだ。CDのサンプリング周波数44.1Khzは人間の耳で聴く分には十分だとされているが、可聴域以外の領域が失われるのは事実であるし、デジタル化の過程で失われる情報も多い。アナログレコードの根強いファンがいることが音楽のデジタル化が単なるフォーマットの変換だけの問題でないことを如実に物語っている。

このように、ネット嫌いの人たちのロジックには理解しうる理由がある。既存ビジネスの収益モデルを破壊するだけでなく、情報が欠落される。

デジタル化は文明の進化そのもの

だが、この情報の欠落はデジタル化だけに限ったことではない。

そもそもの文字自身、人間により発せられた声により伝えられる情報を限定された形式に変化させたものである。音声言語により伝達された情報は、文字に書き起こし可能な情報だけでなく、その発声者の声の大きさやテンポ、さらには各種ボディランゲージなど多くの情報が付加され、それらをすべて含んだ情報として聞く人に伝わる。たとえば、苦しい顔をしながら話すときには、どんなに明るい話題であったとしても、それには苦しい過去があったのかもしれないと推測出来る。

ヨーロッパ史での文字に対する考え方からも同じようなものを見ることが出来る。

ヨーロッパ世界では、伝統的に、文字は音声言語の補助にすぎないという考え方が根強くあった。ソクラテスは、文字に頼ると記憶力が減退するし、文字で書かれたものは弁舌よりも説得力が劣ると考えた。

文字 - Wikipedia

ソクラテスの例を出すまでもなく、話すほうが楽だということも多いだろう。思っていることを言葉だけで伝えることは難しい。感情を言葉だけで完全に伝えることは不可能と言っても良い。音声言語であっても電話になるだけで話が通じなくなることがあることを考えると、文字だけで伝えることの難しさはわかるだろう。

だが、文字の発明により、同じ時間と場所にいなくても、その内容を伝えることが可能となった。時空を超えて、情報が共有されるようになったのは文字のおかげだ。

情報が劣化/欠落する代わりに、大量に生産し、広く共有することが可能になった。それが歴史から見た情報の今である。デジタル化というのはその一形態に過ぎない。

絵画やデザインに関してはウィリアム・モリスが主導したアーツ・アンド・クラフツ運動というのがあるが、その中に現代のデジタル化における葛藤との類似性を見ることが出来る。

ヴィクトリア朝の時代、産業革命の結果として大量生産による安価な、しかし粗悪な商品があふれていた。モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。

アーツ・アンド・クラフツ - Wikipedia

産業革命による大量生産を経験してしまった新しい社会においては、手作業での限定生産には限界がある。

ウィリアム・モリスは)1891年には、ケルムスコット・プレスという出版社を設立し、少部数の美しい装丁の本を作ります。手作業で、優秀な職人が作るとなれば、当然ながらコストがかかってしまいます。『ジェフリー・チョーサー著作集』は、美しい本として評価される一方で、高価すぎるという批判もあったといいます。

『デザインの授業 目で見て学ぶデザインの構成術』 佐藤好彦著 エムディエヌコーポレーション発行佐藤好彦著 エムディエヌコーポレーション発行

「ジェフリー・チョーサー著作集(The Works of Geoffrey Chaucer)」の装丁は装飾で表紙を埋め尽くす形式のものであり、熟練の職人にでのみ制作可能なものであった。
The Works of Geoffrey Chaucer

このような活動で単なる粗悪な形での工業製品ではなく、工業製品に芸術の魂を組み入れることが提唱された。この活動は多くの支持を集めるものとはならなかったが、工業製品におけるデザインのあるべき姿を議論する上で重要な活動であったと思われる。

同様の芸術(アート)からデザインへの動きは建築におけるバウハウスの設立とその後の活動からも見ることが出来る。バウハウスは機能性ばかりを重視し、低品質の装飾ばかりになりかけていた近代化に対して、機能性と芸術性を融合させることを目的とし設立された。

このように世界が近代化/工業化の真っ只中にいるころは、今と同様、既存の文化を支えてきた技術から新しい技術に移るに際しての葛藤があちらこちらで見受けられた。

このような葛藤は、いつの時代にも起こることです。DTPが普及しはじめた頃にも、熟練した写植や製版の職人の技が失われて質が落ちるといわれました。このような場合に、進む道は二つあります。一つは、旧来の技術を大切に守ること、もう一つは、新しい技術の中で質を高めていくことです。そのどちらが正しいというものではないでしょう。

『デザインの授業 目で見て学ぶデザインの構成術』 佐藤好彦著 エムディエヌコーポレーション発行

歴史は繰り返す。大量生産が工業化により可能となった時代にも同じような新旧技術をめぐっての葛藤があった。

大量生産を実現するトレードオフとして情報が劣化したと言ってきたが、考え方としては劣化ではなく、変化と考えるほうが正しい。

大量生産のなかで品質の高いもの作りを目指したのがバウハウスだったといえるでしょう。そこで必要だったのは、デザインを根本から考え直すことです。求められているのは昔からのデザインのものをできるだけよく作ることではなく、新しい時代にあったデザインを、新しい時代の作り方で作ることでした。

『デザインの授業 目で見て学ぶデザインの構成術』 佐藤好彦著 エムディエヌコーポレーション発行

バウハウスから学べることは、新しい時代=デジタル時代にあった情報の生成と流通を考えるべきということだろう。

デジタルは文化を再生産

デジタル化により情報が今まで以上に大量生成されるようになり、容易に広く共有されるようになる。また、情報の再加工ということが可能となる。アナログ形式の情報はその再加工が簡単には行えなかった。一次情報を再加工し、それをさらに共有する。デジタルではこれがいとも簡単に行える。だからこそ、情報の所有者は自分の知らないところで、情報が再加工され流通することを恐れる。権利が侵害されることを恐れる。完璧なDRMを求める背景にはこのようなものがある。

権利処理については十分な議論が必要であるが、この「分解と再構築」という考えは文化の発展に不可欠なものである。

そもそも文化の発展には模倣を基本とするところが多い。先人の偉大な功績を模倣することから新しい芸術が生まれることを繰り返し、芸術は発展してきた。クラッシック音楽も絵画でもそのような例は数多い。模倣の後、過去の価値観を破壊し、新しい世界を創り上げることも多い。

分解と再構築。

ジャズのインプロビゼーションなども良い例だ。マイルス・デイヴィスを見ると良い。ジョン・コルトレーンを見ると良い。彼らのアドリブの中には有名なほかの曲の一節がテーマとして組み込まれていることも多い。曲そのものがクラッシックやミュージカル、ポップス、ロックなどを題材としていることもある。後者はもちろんきちんとした権利処理が行われているが、前者は本の一節であり、原型をほとんど留めないほどの分解がされていることもあり、権利処理などが難しいこともあるだろう。その場合でも、それは盗作、パクリというようなものではなく、その楽曲に対する愛と尊敬が元になったものである。

昨年末に書いた「本の価値」というブログ記事で次のように書いた。

分解と再構築。これは今のメディアのあり方の縮図だ。ネット時代になり、コンテンツの編集権はユーザー側に移動した。コンテンツを細分化し、それを自分のため、もしくは自分から再配信するために編集する。新聞やテレビの黄金時代にはコンテンツの制作から編集、そして配信まで、すべて巨大メディアによって支配されていた。それがネットの普及とともに様々なプレイヤーにより行われるようになり、最終的な編集や配信は個人の手で行われるようにもなっている。

本の価値 - Nothing ventured, nothing gained.

さらには、「本の価値は購入者が決める。どのように使うかも購入者が決める。装丁が好きならば、装丁を大事にした使い方をするだろうし、中身だけに興味があるならば、中身を一番味わえる方法でそれを楽しむ。製作者側に指図されるものではない」とも書いた。今でも考えは変えていない。ただ、願わくば、購入者が作品を原型から破壊するに際しては、作品に対する愛と尊敬を持って接することを期待したい。

ラップミュージシャンが原曲に対するレスペクトを忘れないように、情報を分解し、再構築する側も一次情報に対しての最大限尊重するように努めたい。

そのようにすることによって、デジタル化は過去の歴史がそうであったように、新しい技術により新しい価値を産み出すものとなるだろう。

いずれにしろ、デジタル化は止まらない。デジタル社会に生きるということは、後戻りは出来ないことを覚悟することにほかならない。

最後に、何度も引用させてもらった佐藤好彦氏の『デザインの授業 目で見て学ぶデザインの構成術』から再度引用させてもらう*2

グラフィックデザインの歴史を俯瞰してみると、新しい技術は必ず新しい美意識を生み出します。しかし、多くの人は、今あるデザインを新しい技術で表現しようとして、それが不可能なときには新しい技術を否定してしまうことすらあります。新しい技術を理解することは多くの人に可能です。しかし新しい美意識を生み出すことは、極めて困難なことです。それでも、デザインに関わる人間には、常に新しいデザイン・新しい美意識を生み出すのだという気持ちをもっていたいものです。

『デザインの授業 目で見て学ぶデザインの構成術』 佐藤好彦著 エムディエヌコーポレーション発行佐藤好彦著 エムディエヌコーポレーション発行

*1:SVGフォントなどの利用もオプションの1つであるが、これも賛否両論ある。

*2:この書籍はデザイナーでなくても楽しみながらデザインの見方を学べる良書だ。万人にお勧め。