ともだちってなんだろう - Facebookにおける対称性が強いる「ともだち踏み絵」

彼女とはどういう関係なんだろう。呑みに誘えば付き合ってくれるなど、二人で出かけることも多い。お互い好き合っているとは思うのだけれど、もしかしたら彼女からは単なる仲の良い異性の友人としか思われていないのかもしれない。

このように悩んだ経験はないだろうか。

「彼は友達以上、恋人未満」

とか

「あいつとは一生付き合うことになるだろうほどの親しい友人」

などのように、他人と自分の関係を定義することは多いが、この定義は一方通行であることがほとんどだ。

言い換えると、関係性は非対称である。自分が思っているような関係であると、相手も思っている保証はない。

これがFacebookの、時として感じる、気持ち悪さなのだ。

Facebookで友達としての申請が来て、「この人、あまり知らないしな」と思うたびに、気の弱い私は「申請を断ったら、傲慢だって思われないだろうか」とか「相手は友達だと思っているのに、こっちはそうじゃないと思っているのが知られたら気まずいな」とか思い、結果、承諾も拒否もできないままの状態になることが多い*1

一応、私のFacebookのプロフィールには「友達申請はお会いしたことある方に限らせていただいております。ほとんどの投稿は公開しており、どなたからのコメントも受け付けるようにしていますので、フィードを購読するようにお願いします。」と書いているのだが、Facebookで、この画面までたどり着くのが面倒くさいためか、読まないで申請してくる人も多い。

それよりも、もっと悩んでしまうのが、

一度でも会ったら友達なのか?

いったい、友達ってなんなんだろう?

などのような、考え出すと、生きる意味まで思いつめてしまうほどの深い疑問だ。

どこかのカンファレンスで名刺交換した人も確かに「お会いしたことのある方」だ。だが、そこで一度会っただけの人よりも、一度も実際には会っていなくても、メーリングリストなどで議論を交わしたりしている人のほうが「友達」に近いかもしれない。でも、そのような方は「お会いしたこと」はない方なので、申請してこないかもしれない。

Facebookはリアルの世界の人間関係をネット上に構築することを目指していると聞く。そのため、会ったことの無い人とは友達にならないように勧めている。海外などで別端末からFacebookにログインすると、友達の人の写真を表示し、それが誰かを尋ねることで、Facebookにログインしようとしている人が本当に本人かを確認するのは有名な機能だが、それも、友達関係にある人の顔ぐらいは判別できるはずだという判断がベースになっている。

ここでは大げさに書いているけれど、本当は別に悩んでいるというほど深刻な問題ではない。ただ、ある種の居心地の悪さというか、簡単には判断できない「つっかかり」があるのは事実だ。それもこれも、友達関係というのは本来は対称性がないにも関わらず、Facebookにおけるそれは承認というプロセスを必須にすることのより、対称性があるものとして設計されていることによる。

つまりは、Facebookは、もやもやとして人間関係に、いきなり「友達」関係を確認させる踏み絵を送ってくるようなものなのだ。

ソーシャルメディアの対称性については、その言論空間としての特性を中心に以前このブログでも言及したことがあった(参考:ソーシャルメディアにおける対称性と言論空間としての特性)。その際は、主にコンテキストがどのように共有されるかという観点での考察であったが、今回、ここで述べているのは、むしろ関係としての対称性だ。

Facebookの比較対象として、TwitterGoogle+を見てみよう。

Twitterはそもそも非公開に設定していない限りは、承認なしでつながることができる。しかも、つながりは一方向だ。相手も自分とつながったことが通知されるが、つながっていなくても、返信(Mention)はできる。ここには、関係を確認させるようなプロセスはない。

Google+も同じだ。Google+もTwitterのように、承認なしでつながることができる。つながりは一方向だし、かつサークルという概念で複数のつながりを持つことができる。相手も自分とつながりを持ったことが通知されるが、どのサークルに含められたかはわからない。投稿にコメントを付けられるユーザーは設定が可能だが、全ユーザーに許可することもできる。

こう比較してみると、TwitterFacebookGoogle+の非対称性が際立っていることがわかるだろう。

だが、Facebookもフィード購読が可能になったり、設定*2をちゃんとすれば、誰もがコメントできるようにもできる。制限ユーザー*3を使えば、友達だけれども公開範囲が一般公開のものしか見えないようにもできる。Google+のように限定したユーザーにだけ投稿を見せることもできる。対称性を基本にしたところからスタートしたかどうかの違いで、機能面だけを見ると、実は現時点では「対称性」をそんなに強いているわけではない。だが、既定状態というのは大事だ。既定状態での振る舞いがそのサービスの目指す方向や生い立ちを表す。

それよりも、Facebook対称性が「踏み絵」を感じさせるほどの居心地の悪さを感じさせてしまう理由は、実は、その既定の双方向のつながりを「友達」と呼んでいるからではないかと思う。もし、これが「既定のサークル」とか「既定のつながり」とかいうだけだったら、ここまでのユーザーが「友達」としてつながることにこだわることは無かっただろう。Google+のサークルがどれがその人にとって既定の一般的に使うサークルであり、自分がどれに入れられているかがわからないのと違い、Facebookでは「友達」が未だに価値を持つ。

良くも悪くも、この「友達」を中心としたコミュニケーションがFacebookの今までであり、これからでもあるのかもしれない。

* ここで述べられていることは私の個人的な意見に基づくものであり、私の雇用者には一切の関係はない。

*1:ちょっと大げさ。

*2:すごいわかりにくい場所にある。

*3:最近知ったのだけれど。