所詮野次馬なのか

ちょっと前になるが、佐々木俊尚さんがCNET上の自身のブログ「ジャーナリストの視点」で秋葉原事件でのメディアと一般人の報道/情報の発信と共有について考えを述べられていた。

秋葉原連続殺傷事件をめぐって、現場を撮影した人たちのモラルが問題になっている。背景には報道と野次馬の境界線が消失し、一般人の情報発信とマスメディアの取材・報道の境界線がなくなっているということがあるのだろう。それはたしかに事実であり、そう指摘することはたやすいのだけれども、しかし一方で、なぜ報道の撮影に対してはある程度許容できるのに対し、一般の人の撮影に対してはなぜあれほどの不快感を抱いてしまうのかという、その差を説明できたことにはならない。

同じ空間を共有できていたのか−−秋葉原事件の撮影について

実はあの事件の一報を聞いたとき、その場に自分がいなかったことに安堵した。それは、自分が事件に巻き込まれなかったからではなく、その場にいたら持参していたであろうデジカメで事件を撮影してしまっていたかもしれなかったからだ。

これだけデジカメやカメラ付き携帯が普及していると、誰にだっていつだって写真を撮ってしまう可能性はあり、それは巷で言われているように、野次馬的な好奇心によるものも多い。だが、実はメディアだって同じではないかと佐々木さんは言う。

さらに言えば、新聞記者の側に野次馬根性のようなものがないかといえば、決してそんなことはない。藤代裕之さんもガ島流ネット社会学で書いているように、新聞記者や報道カメラマンの多くは、自分が現場にいることに興奮し、その興奮は野次馬根性以外の何ものでもない。

さらに佐々木さんは「マスコミは野次馬根性を隠すための共同幻想装置だ」とも言う。つまり、メディアを通じてその情報を受ける側も実は野次馬に過ぎず、そこを社会正義などという言葉で隠す作業を補助しているのがメディアだと。

 実はこの野次馬根性というのは、それらの記事や映像を受け取る視聴者・読者の側とダイレクトにつながっている。大半の人は、野次馬根性でしか事件報道を見ていない。事件現場の映像にゾクゾクするような興奮を感じない人がいるだろうか? 被害者や遺族に対する詠嘆、社会に対する怒りなどの理性的な思考が生まれてくるのはしばらく後の話で、最初の事件発生直後には、報道するマスメディアとその情報を受け取る視聴者を巻き込んだ、興奮の渦しか存在していない。

 この興奮のメディア空間の中で、マスメディアはいったいどのような役割を果たしているのか。もちろん第一義的には情報を視聴者のもとへと運ぶコンテナーの役割を持っているのだけれども、それと同時にマスメディアは、野次馬根性を「公共性」という甘ったるい生クリームでからめとってしまい、むき出しの野次馬根性を覆い隠してくれる役割を持っている。

佐々木さんのブログでは、「巻き込まれ」ているかどうか、つまり当事者であるか、その感覚が共有できるかが野次馬かどうかの境だと言う。インナーサークルであることにこだわり続けている佐々木さんらしい考察だと思うし、この視点は非常に理解できる。

ただ、私が秋葉原事件で現場にいなくて良かった−デジカメで写真を撮っていてしまったかもしれない−というのは、このような野次馬と批判される存在になったかもしれないことに対してだけではない。

今年2月にワシントンDCに出張で行った際、週末を挟んでいたので、市内観光をした。いろいろと見て回った後に、ユニオンステーション(Union Station)に行ったのだが、そこでボヤ騒ぎがあった。地下のフードコートで軽食をとっていると、なにやら騒がしい。非常ベルも鳴っている。奥を見ると、煙が出てきていて、簡単なパニック状態となった。あっという間に周りの人間は外に非難して、私と周りにいた数人だけが取り残されたのだが、何を考えたのか、私はとっさにデジカメを取り出し、写真を撮ったのだ。

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今でもこのときの自分の行動は良く理解できない。火事を甘くみていた*1か、それとも単に記録に残したかったのか。佐々木さんもブログに書いているような「ライフログ」の一環として。

秋葉原の事件の際に現場にいなくて良かったと思ったのは、このときと同じように、状況をきちんと判断しないまま記録に残すことを優先してしまうようなことがありえたのではないかと思ったからだ。結果として、事件に巻き込まれたかもしれないし、野次馬として非難される行動になったかもしれないし、うまく言えないが、とにかく本来やるべきこと(やってはならないと正常な状態では判断できること)を判断できないような/優先度を間違ってしまうようなことになったかもしれない。

一方、パブリックジャーナリズムのようなものについては、私はまだどこかで幻想かもしれないが期待を抱いている。メディアからの側面ではない何かが一般人から発信されることがあるのではないかと。たとえば、同じく今年2月にニューヨークに行った際に、タイムズスクエア(Times Square)近辺でコソボ独立を祝うデモ(?)があった。この件については、ブログにも書いているのだが、あとから聞く限り、日本ではほとんど報道されていなかったようだ。このコソボの件についてはそれほど価値のある情報でもないかもしれないし、私も単に「こんなことがありました」以上のことは書いていないので、あまり良い例ではないだろう。しかし、メディアの入れない場所、まだ到着していないときに、一般人が記録した情報というのは高い価値を持つはずだ。今でもコンビニエンスストアーなどの防犯カメラの映像が貴重な価値を持つことは多い。無人の機械による撮影は貴重な情報になって、人が意思を持って撮影したものは非難されるのか。

佐々木さんのブログも次のような言葉で終わっている。

 もしこのような時代がやってくれば、そのときには撮影するという行為の不的確さや野次馬問題が語られることはなくなるだろう。……それが良いことなのかどうかは、とりあえず置いておくとしての話なのだが。

 いずれにしても、そうしたライフログデバイスが埋め込み型なのかどうかは別にしても、人間が自分の見聞きしたことをすべてログしていく、ライフログ時代というのはすぐそばまでやってきているようにも思える。その時代には、今はまだ想像もつかないような新たな問題が浮上しているかもしれない。

既存の枠組みからは大きく異なる情報の記録および発信ができつつある時代において、メディアやジャーナリズムのあり方というのは今後考えていかなければいけないだろう。

*1:結果的には惨事にはならず、被害者もでなかったようだが。