インターネットとエコシステム

エコシステムというのに疑問を呈したのが8月のこと。

ITエコシステムという欺瞞

多くのプラットフォームベンダーによる囲い込みを「エコシステム」と呼ぶことに疑問を感じたのが、当時投稿をした理由だ。

プラットフォームという農地に小作人として入ってくれという戦前あった農地のような話だ。私の農地を皆さん耕していいですよ、そのかわり年貢を収めてね、という話だ。不平等な地主と小作人、これがエコシステムという綺麗な言葉の本質だ。

小作人にも階級があり、極めて珍しい作物しか作っておらず収穫量が少なかったり、あまり売れることが期待できなかったりする場合には地主からの対応も悪くなる。良い土地を与えられなかったり、土地が限られている場合には出て行くことを要求されたりする。

しかも、土地の上でのルールや作物の販売のルールは地主が決める。どんなに不条理であっても守らないと追放される。

エコシステム、日本語では生態系というのが一番適切な訳だろうか。これには意思がない。ガイア理論という懐かしの理論にあるように、システムそのものが生命体のように振舞うと考えることさえできる。つまり、このシステムの中では誰もが主役であり、誰もが端役だ。ルールもない。いや、それさえシステムで決められる。それがエコシステム、生態系たるものの姿だ。

ITエコシステムと呼ばれるものに感じる違和感はどんなに美辞麗句を尽くそうとも、システムのルールが1つもしくは極少数のベンダーによって決められていることだ。そこでは恣意的なシステムの運営が可能となる。そう考えると、IT業界だけでなく、所詮利益を追求する企業が中心の世界ではエコシステムは絵に描いた餅ではないか。

これが前回投稿した際に考えたことだ。だが、その後インターネットはもしかしたらエコシステムと呼ぶに比較的ふさわしいシステムではないかと思い始めている。IETFなどのルールを決めるべき団体はあるが、哲学として守るべきものは不文律であり、流動的である。参加者の振る舞いによりインターネットそのものも変化していく。

オープンソースもエコシステムがなりたつ仕組みではないかと考えていたが、オープンソースプロジェクトにはいくつもの形態があり、特定のベンダー色が強いものも多くあるので、オープンソースすべてがエコシステムの成り立つ条件とは言えないことにすぐ気づいた。こういうと曖昧で突っ込まれることになると思うが、所謂「オープンソース的な」*1ものはエコシステムを支える要因の1つには成り得ると思う。

この話題を引っ張るつもりはないのだけれど、自分で否定しておいて、自分でもエコシステムという言葉を使わざるを得ないことがあり、釈然としないので、いろいろと考えてみている。

*1:なんだそれ! と自分で突っ込んでおく