ソーシャルメディアにおける対称性と言論空間としての特性

自分が積極的に利用するソーシャルメディアとしては以前はTwitter一辺倒だったが、今はTwitterFacebookGoogle+をそれぞれ使い分けている。もともと、Twitterしか使っていなかったというのが原因ではあるが、それぞれの特性が自分なりに見えてきたことも使い分けができるようになった理由だ。

使い分け方としては公共空間にダダ漏れしても構わないものはTwitter、プライベートなものはFacebook、少し固めの議論が発生することも想定するものはGoogle+などと漠然と使い分けていたのだが、使い分けの1つの軸としてソーシャルメディアとしての対称性があることが自分なりに見えてきた。

ソーシャルメディアにおける対称性

対称性とは対話相手とソーシャルストリームを完全に共有しているかどうかで決まる。言い方を変えると、自分の発言を読めている相手の発言も自分が読んでいる場合、それが対称性が確保されている状態である。自分の発言を相手は読んでいるが、自分は相手の発言を読んでいない場合、またはその逆で自分は相手の発言を読んでいるが、自分の発言を相手が読んでいない場合は非対称である。実際に発言すべてを読んでいるかどうかはここでは問題としない。読める状況として、ソーシャルストリームを相手と共有しているかで対称性が決まるものとする。

わかりにくいので、TwitterFacebookで考えよう。

以下の表にまとめてあるが、基本的にはTwitterは非対称型ソーシャルメディアであり、Facebookは対称型である。

対称 非対称
Twitter △非公開設定にし、フォローワーをすべてフォローした場合
Facebook ◯投稿先を「公開」にした場合

Twitterは承認無しに好きな相手をフォローできる。したがって、自分のTweetsを読んでいる相手のTweetsを自分が読んでいる保証はない。非公開設定にしている場合は例外であり、非公開設定にしてフォローリクエストをしてきた相手をすべてこちらからもフォローし返せば対称になる*1

Facebookは細かくアクセス制御ができるように進化したので一概には言えないが、過去からの経緯や既定での動作などから考えるに対称型のソーシャルメディアであると言える。友達リクエストを承認することで、対称型のフォロー関係が出来上がる。つまり、友達リクエストは双方向すなわち対称型のソーシャルストリームを構築するリクエストとなる。ただし、Facebookでの投稿時に投稿先を「公開」にした場合は自分の友達だけでなく、自分が直接ソーシャルストリームを見ることができないユーザーにまで自分の投稿を公開することになり、Twitterと同じく非対称となる。

ここで説明しているソーシャルストリームはTwitterではユーザーのタイムライン(TL)であり、Facebookではニュースフィードである。このTLやニュースフィードが完全に共有されているわけではないが、フォローによって結ばれた2者間で見た場合に、TLやニュースフィードの一部は共有されていることになる。ユーザーを指定してTLを見た場合、Facebookでウォールを見た場合、そこにある投稿は確実に見ることができる。ちなみに、Facebookの場合、Facebookページが複数人で完全に共有するソーシャルストリームを実現している例と考えられる。Twitterのリストは書き込める人と読む人が異なるので、完全に共有するソーシャルストリームではない。

Google+はどちらの特徴も併せ持つ。自分のサークルに加えることでその人の投稿とそれへの別ユーザーからのコメントを読むことができるが、サークルに加えるために承認の必要ない。この動作はTwitterのフォローと同じであり、これにより非対称なソーシャルストリームができあがる。ただし、アクセス制御が細かく行える点はFacebookのそれに近い。サークルを複数持つことで、投稿時にサークルを使い分けることができる。

* ここで述べられていることは私の個人的な意見に基づくものであり、私の雇用者には一切の関係はない。

言論空間としての位置づけ

このソーシャルストリームの対称性を言論空間としての位置づけと関連付けてみよう。

Twitterにおいてはソーシャルストリームが非対称であるが故に、誰に読まれているかわからないことを覚悟する必要がある。良く炎上騒ぎになるのはこの理解が浅いためだ。ネット掲示板やパブリックなメーリングリストで発言するのと一緒である。リスクがあるのと同時に言論空間としてのスケールは大きい。ネットにおいて世論形成が可能というのはまだ大げさだが、情報の伝播能力と非対称型であるが故の議論の広がりはパブリックな言論空間として必要なものであろう。一方でパーソナルな言論空間としては、この非対称性が居心地の悪さを呼ぶ。

Facebookは対称型であるため、あくまでも自分の知り合いだけに囲まれた心地よさを期待できる。もちろん自分がどのような人を友達として登録しているか、友達リクエストを承諾しているかによるが、自分が創り上げることのできる言論空間である。1対1ではないが、それでもプライベートな言論空間といえる。

Google+はTwitterと近いが、複数のサークルを使い分けることにより、言論空間を明示的に分けることができる。ただし、言論において綺麗に分類された世界が必ずしも良いかどうかはわからない。ここではGoogle+では投稿者によって言論空間を分けることが可能であることを加えておくに留める。

いずれにしろ、人の心地よさはソーシャルストリームが対称であることにより、より増すし、言論空間としての広がりは非対称型のソーシャルストリームに分がある。

複雑さを増す対称性

今回説明しているソーシャルストリームの対称性は投稿者から見た場合の対称性であるが、読者から見ると違う形となる。たとえば、Facebookにおいてもフィード機能を利用することにより、自分の投稿を共有することなく、相手の投稿だけを読むことが可能であり、これは対称性をベースに発展してきているFacebookに非対称性を持ち込むものである。また、TwitterのRetweetやFacebookGoogle+における共有は読者側で対称性を崩し、さらには非対称性をより発展させるものである。

このようにソーシャルストリームの対称性*2は複雑さを増しているが、議論の発展や心地よさ、炎上の際に常に見えるソーシャル空間への誤解などは、この対称性に基づく部分が多いのではないだろうか。

*1:厳密には、一度フォローを許可した後にそのユーザーがフォローを外した場合は非対称となるので、△とした。

*2:逆に言うと非対称性