不連続への挑戦

昨夜見たテレビに橋下新大阪市長が出ていた。

制度疲労を起こしている現在の行政に対し、「不連続」への挑戦をしなければいけないと主張していた。近い将来破綻することがわかっている年金制度をネズミ講と酷評し、単に「続ける」ことだけを目的としているものは止めなければいけないと言う。

いいぞ。もっと言って。

私は彼の政治手腕について知らないし、大阪市民でもないので、実際の政治手法やプランについてはコメントできない。あくまでも止めることへの歯に衣着せぬ発言に対しての賛同だ。

周りを見回しても、止めれば良いのに止めていないものをいくつも見つけることができる。

存在価値は? 存在意義は? と自分たちのしている業務について自問している人もいる。

ゼロベース思考、つまり今からスタートしたと仮定したときに、それを本当に始めるかで考えてみると良い。

続けるのは大変だけれど、止めるのも大変。止めると困る人が少人数でもいる場合は特に大変。失敗したら責任問題になるかもしれない。無難なのはとりあえず続けること。

プロジェクトをキャンセルするのなども、それにより雇用が確保されているとか、それを今生きがいにするほどの意気込みでやっている人がいたりすると止められない。少人数でも使っている人がいると、その人達から文句を言われないために、製品をリリースし続けたりする。

でも、これって本当は止めることにより始められる何かにより失われたであろう機会損失を考えると、犯罪的にやってはいけないことなのかもしれない。

スクラッチから考えて、同じリソースを使って何をするかで出てくる答えが、今やるべきこと。

止められない理由は、過去の成功体験に囚われていることなどもあるが、止めるという決断をするのが怖く、それを先延ばししているだけのことも多い。

年金制度を代表とする制度疲労を起こしている日本という国家のさまざまの問題。素人ながら考えてみると、そこには共通する課題があるように感じる。国家と国民の関係を企業と顧客の関係に無理を承知でたとえてみると、今日の日本株式会社は声の大きい既存顧客の声ばかりを聞いており、明日に繋がる顧客を無視しているのではないだろうか。大票田を逃したくない*1など理由があるのだろうが、未来の日本の担い手への配慮が極めて足りない。未来を考えた場合、止めなければいけないこと、変えなければいけないことは山ほどあるはずだ。

また、一般的に連続性を重視しすぎる人は、明日を生きる人ではない。今の仕組みを変えたくない、「静かに暮らしたい*2」人たちなのだ。暴言を承知で言うと、勝ち逃げを狙っている人たちなのだ。いつか壊れるのがわかっている。だけれども、自分が現役の間はどうにか持ちこたえられるならば、それまではだましだましでも続けていきたい。まさに、ネズミ講

ネットメディアへの移行、新しいビジネスモデルの確立。パラダイムがシフトするときには、破壊がつきものだ。痛みを伴う。自分の身だって安泰じゃないかもしれない。総論賛成、でも後でやってね。こんなことがそこかしこで見られるようではいけない。

「不連続」への挑戦、これは日本の多くの人が考えなければいけないことかもしれない。

*1:これはこれで極めて器の小さい話である。

*2:これは私の最初の会社の尊敬する先輩の名言。