本の価値
あまりちゃんと追っていなかったのだが、自炊代行業者が訴えられた件をいまさらながら考えてみた。
逆の明文化となるか: 東野圭吾さんら作家7名がスキャン代行業者2社を提訴――その意図
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自炊行為に対しての2つの論点
ポイントは2つあるようだ。
1つは自炊代行は著作権法違反だから、その行為を止めるべきであるという主張。
もう1つが代行かどうかはともかく自炊は行うべきではないという作家の気持ち。
記者会見などを見る限り、提訴は前者に対してのみ行われている。
7人は自分で購入した書物を自分のために自炊することは認められるが、利用者の注文に応じて自炊することは著作権法に違反していると主張している
(以下のTBS News-iのニュースより)
しかし、言葉の端々などから後者の主張もにじみ出ている。著作権法上認められていないのだったら、こちらも禁止したいというのが本心であろう。
浅田さんは同日の記者会見で「子供同然の本を、見ず知らずの人の手でいいようにされることに憤りを感じる」
本の「自炊」代行は複製権侵害 浅田次郎氏らが提訴 : 日本経済新聞
提訴後、都内で記者会見した浅田氏は「裁断された本は正視に堪えない。業者が増え、今提訴しなければならないと思った」と訴訟に至った経緯を説明した。
「自炊」代行2社を提訴…人気作家ら7人 : 読売新聞
会見場に置かれた裁断済み書籍について、林さんは裁断された書籍について「本という物の尊厳がこんなに傷つけられることはとんでもないことだ」、武論尊さんは「作家から見ると裁断本を見るのは本当につらい。もっと本を愛してください」と話した。
「自炊」代行2社にスキャン差し止め要求 東野圭吾さんら作家が提訴 : ITmedia
代行業者による著作権法違反という指摘については裁判で争うのが妥当だと思う。実際に原告側の論点は理解できる。法解釈の問題はある。また、業者がスキャンした後のデータをどのように処理していたか*1などは解明されるべきであろう。電子書籍市場やDRMのあるべき姿なども議論されることは良いことだ。
出版社や作家には読者が何故自炊をするのか、自炊代行業者に依頼するのかというところをじっくりと理解してもらって、その解決を考えて欲しい。それが新たなビジネスの創造につながるはずだし、次の文化への発展をも秘めているかもしれない。
本を裁断しないでくれという論理
後者の代行に限らず自炊はしないで欲しいという希望には、本はこうあるべきだという作り手側の論理が横たわる。
これについては佐藤秀峰氏がコメントしている。
僕も目の前で著作本をビリビリに破かれたら悲しい気持ちになるだろうし、自炊を悪としたい気持ちも分からなくはありません。
ですが、本は購入した方の所有物ですから、破こうと捨てようと作家は口出しできる立場にはありません。[中略]
僕は、本を買った後の使い方まで指示されるなら、その作家の本はあまり買いたくありません。
他にも楽しい物はいっぱいありますし、中古で買うな、売るな、漫画喫茶で読むな、自炊するな、と言われたら、本は新刊で買って、読まなくなったら捨てるしかないです。
わざわざ自炊をしてまで、自分の著作を読もうとしている人達を、なぜ閉め出そうとするのでしょうか。
完全に同意する。
文字離れが進んでいると言われている*2中で、他にも娯楽や情報収集の手段があるにもかかわらず、わざわざ本を買ってくれている読者に対して、その使い方まで指示するというのはおこがましいにもほどがある。
この佐藤氏の主張に対して、「もしドラ」などで知られる岩崎夏海氏は次のように反論している。
本は、購入した人の所有物ではありません。そもそも、太陽とか土とか水でできた紙を使ってできた本を、数百円払ったくらいで「所有」しているという考え方がおこがましい。
[中略]
佐藤さんのようなことを人が本を買う必要はありません。本はむしろ「買った後の使い方まで指示してほしい」という人が買うべきであり、また読むべきものです。
なかなか過激な主張である。購入しても所有できないって、どこの共産国家?
作家をもっとレスペクトすべしというのはわかるが、普通に書店で売られているものに対して、レスペクト度合いをベースに購入の可否を決定するのは不可能であろう。本当にそれをしたいのであれば、それこそ大量販売ではなく、会員制などにすれば良い。ある一定のレベルに達しないと次の書籍を読ませないなど。
話を戻すが、本を裁断するということは作家だけでなく、通常の読者にも抵抗感は強い。私も抵抗がある。
私は自炊はしないので、裁断するのは本が分厚く持ち運びに不便なとき。特に通勤時間を利用して読もうと思っているときなど、持ち運びに便利なように勝手に小さく分冊にして1つずつ読んでいく。もしその本が大事なものだったら、通勤時の読書用と保存用と2冊購入する。
この話をTwitterで展開しても罪悪感がどうしても拭えないという人がいた。線を引くことや書きこむことなどもオリジナルの状態から本を変えてしまうことになるのだが、それは破壊的な行為ではなく、個人的価値の追加だから抵抗感が無いというコメントももらった。
多分、本を破るという破壊的行為に対して、書き込みなどは個人的価値の追加だからでしょうか? RT @takoratta: 本を破るのは忍びない場合でも、折ったり、線を引いたり、書き込みしたりは抵抗無かったりしません?
このコメントには次のように返した。
@u6k_yu1 破壊というより分解と考えると良いんですよね。分解して自分の好きなフォーマットに組立て直す。どうでしょう?
分解と再構築。これは今のメディアのあり方の縮図だ。ネット時代になり、コンテンツの編集権はユーザー側に移動した。コンテンツを細分化し、それを自分のため、もしくは自分から再配信するために編集する。新聞やテレビの黄金時代にはコンテンツの制作から編集、そして配信まで、すべて巨大メディアによって支配されていた。それがネットの普及とともに様々なプレイヤーにより行われるようになり、最終的な編集や配信は個人の手で行われるようにもなっている。
少し古い記事だが、2009年にFeedJournalとTumblrを例にあげてこの編集権が移動したことを論じている。今だと、Paper.liやInstapaperなど個人編集のためのツールとなるだろう。
ネット時代のメディア戦略 ― FeedJournalとTumblrに見る編集権の分散
つまり、コンテンツはそれが市場に出た際にすでに作者の手を離れ、再構築されたり、編集されたりし、独りで歩きまわっていく。それは昔からそうであったが、ネットによりさらに加速している。
裁断された本を見るのが忍びないという気持ちは良くわかる。特に、装丁にこだわった本ならばそうだろう。
だが、本の価値は購入者が決める。どのように使うかも購入者が決める。装丁が好きならば、装丁を大事にした使い方をするだろうし、中身だけに興味があるならば、中身を一番味わえる方法でそれを楽しむ。製作者側に指図されるものではない。
利用許諾
佐藤氏は次のように書く。
スキャンされない唯一の方法は、本を販売しないことです。
もう1つ方法がある。
利用許諾書を付け、それに許諾した人だけが読めるような形式にすること。
コンピューターソフトウェアがその形式をとっている。シュリンクラップのパッケージ製品の場合、パッケージを開ける際に利用許諾書を許諾したことになっていたり、インストール時にチェックボックスにチェックを入れないとインストールが進まない形になっているものが多い。そのようにすることで、ソフトウェアベンダーは想定した以外の使い方を許可していない。リバースエンジニアリングなどが禁止項目に入っているのが一般的だろう。
書籍も使い方まで制限したいならば、利用許諾書をつけるのが良い。