だが今回は、もう少し我々に身近な領域である、ビジネスにおける創造性を取り上げたい。
アートの世界では、創造が評価されるまでに時間がかかっても構わない。ゴッホのように、生前は理解されずとも、死後に評価されることもある。だがビジネスは違う。時間軸が圧倒的に短い。「ズレ」からスタートした創造がビジネスとして形になることまでが、アートに比べると短い時間で達成することを求められる。
では、ビジネスにおける創造性とはいったい何か。「ズレ」に加えて、別の何かがあるだろう。今回の記事では、それを探索してみたい。
ズレること=創造的ではないのでは?
創造性が「ズレ」だけであるならば、変わり者はすべて創造性があることになる。私も昔から変わり者と呼ばれてきた。小学生の頃から、「及川くん、今その話をするタイミングじゃないでしょ」と言われたり、「お願いだから話を逸らさないで」とたしなめられたり。何度も経験した場面だ。
似たような経験がある人も多いだろうし、そういう友人を思い浮かべる人もいるかもしれない。常識を疑う力、枠にハマらない発想は、確かに創造性の源泉になり得る。だが、それだけで創造性があるとは言えない──私自身を含めて。
ズレている人がすべて創造性を発揮できるわけではない。ズレは創造性の“必要条件”ではあっても、“十分条件”ではない。
それでも私たちは、成功した変人たちを見て「やっぱり変わってる人がすごいんだ」と思ってしまう。それは一種の生存者バイアスだ。表に出てこなかった、無数の“ズレただけの人”は、記憶にすら残らない。むしろ、彼らは(私も含めて)ただの面倒くさい人だ。
では、なぜ彼らは「創造的」とは見なされなかったのか?ズレだけでは足りなかったとすれば、創造性に必要な他の要素は何なのか?
「ズレただけ」で終わった実例たち
「ズレ」はあったものの、ビジネスとしては成功を収めなかったものは枚挙にいとまがない。むしろ、それらの方が多いだろう。
たとえば、セグウェイ。
歩行を代替するパーソナルモビリティとして、セグウェイは当時としては非常に革新的な発明だった。スティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾスもその可能性を高く評価していたという逸話も残っている。私自身も登場当時、リアルタイムでその話題に触れ、心を躍らせたひとりだ。
発表前は「何か世界を変えるようなものが出てくるらしい」と噂だけが先行し、その正体がパーソナルモビリティだと知ったときは、正直少し肩透かしを食らった。しかしその一方で、「これはこれで面白いかもしれない」という感覚も確かにあった。技術的な先進性は感じられたし、日本ではいつ利用できるのだろうと期待が膨らんでいった。
知人の中には、公道での使用が制限されていると知りつつも購入する人も現れた。おそらくそんなことをしたのは彼だけではないだろう。日本においてでさえ、ある種の熱狂があった。その現象の背後には、社会の現状と技術の提案との間にある、明確な「ズレ」があった。つまり、確実に存在する社会課題に対して、従来の発想の延長線上にない解決策。
だが、セグウェイは私たちの日常に定着することなく、2020年には製造が終了している。端的に言うと、失敗だ。
失敗は複数の要因が重なっていた。
第一に、価格設定が高すぎた。当時1台あたり約5,000ドル(約60万円)、機種によっては100万円を超え、手軽に買えるものではなかった。電動アシスト自転車という代替手段も存在し、そちらに顧客が流れた。
第二に、法的な整備が追いついていなかった。日本を含む多くの国で公道走行が認められておらず、使用シーンが限られていた。
第三に、実用性の低さがあった。重量は約47kgと重く、最高速度は20km/h。航続距離も短く、操作も体重移動という慣れが必要な方法で、誰もがすぐに使えるものではなかった。
さらに、事故によるネガティブ報道も影響した。そして何よりも、電動モビリティ市場そのものがまだ未成熟で、顧客ニーズと技術の“ズレ”が埋まらなかった。
別の例として、Adobe Flashを取り上げたい。Flashは、Webをリッチでインタラクティブな体験に変えるという極めて“ズレた”思想のもと登場した。テキストと画像中心だった1990年代のWebに対して、アニメーションや映像、音楽を動的に届けようとしたのだ。HTMLやJavaScriptでは実現できなかった自由な表現を可能にし、当時のWeb制作者の創造性を大きく解き放った。
つまりFlashは、「Webは読むものではなく、体験するものだ」という、当時の常識からは逸脱した価値観を提示していた。それは確かにズレていたが、一定期間、創造性を実現するエンジンとして大きな役割を果たした。
だがやがて、Flashが実現していたことの多くは、HTML5やCSS、JavaScriptといったWeb標準技術だけで実現できるようになっていく。いわゆる“オープンWeb”の進化である。私はむしろそちら側にいた人間なので、Flashなしでリッチな体験を可能にすることを使命としていた。それと時を同じくして、スティーブ・ジョブズがFlashにとどめを刺す。AppleのiOSがFlashに非対応を打ち出したのだ。セキュリティやバッテリー消費の問題もあり、Flashは“標準外”として次第に扱われるようになり、2020年には公式サポートも終了した。
Flashが当初提示した“ズレ”は、確かに創造性を開花させた。しかしそれを時代の変化にあわせて普遍的なものに定着させることはできなかったのである。時代の徒花と歴史の藻屑へと消えた。
ズレ以外に必要なもの。創造性は、構造である
創造性とはズレること──確かにそれは、創造の始まりではある。だが、ズレるだけでは創造性は生まれないことはすでに見たとおりだ。では、何が足りなかったのか?
この問いに対して、私が提案したいのは、以下のような創造性の定義だ:
創造性 = ズレ × 求心力 × 商才 × 実行力(胆力) × 熱量(内発的動機)
この式が意味するのは、どれか一つでもゼロなら、創造性はゼロになるということだ。算数がわかればわかるだろう。たとえ画期的なズレがあっても、実行されなければ空想で終わる。熱がなければ続かない。人を巻き込めなければ孤立する。商才がなければ社会に届かず、継続できない。
つまり、創造性とは「ズレ」だけで語るには不完全すぎる。むしろ、「ズレを価値に変える一連の構造」を持ち得たかどうかが問われている。
このように、創造性の5つの構造は、掛け算で成り立つ。とりわけ「実行力(胆力)」と「熱量(内発的動機)」は、他すべての要素──ズレ、求心力、商才──を支える“推進力”として機能する。実行力は「一歩を踏み出し続ける意志」であり、熱量は「なぜその一歩を踏み出し続けられるのか」という根本の問いに対する答えである。
では、1つずつ見ていこう。
ズレ(発散的思考)
創造の種。常識を疑い、違和感を抱き、あるべき姿に気づく力。これは前回のブログ記事で解説しているものだ。だがこれは、最初の入り口にすぎない。ズレだけでは社会を動かせない。
たとえば、「この業務フロー、そもそもなぜこうなっているのか? そもそもこれは必要なのか」と疑問を持ったとき。それはズレの第一歩かもしれない。日常の中に潜む小さな違和感を言語化し、問い直す姿勢が、創造の出発点となる。
求心力
「その人がやっているなら信じられる」という存在の重み。いくらズレがあっても、孤立していれば社会的な創造にはならない。
スティーブ・ジョブズがやるから信じられた。マネジメントや表現力、哲学と言語の整合性。求心力とは、人を惹きつけ、自然と協力者を生むような“存在の説得力”である。
変なこと言っている奴がいるな。でも、面白そう。◯◯が言っているなら、やらせてみようか。そういうことだ。私もそう言って頂けたことがある。
これは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが説いた説得の三要素──エトス(話し手の信頼性)、ロゴス(論理)、パトス(感情)に通じる話だ。創造性における「求心力」とは、これらをどう組み合わせ、いかに人を動かすかということに他ならない。
商才
ビジネスにおける創造性は、単に「いいアイデア」を出すことでは終わらない。継続的に収益を生み、社会に受け入れられる形にすることが求められる。
商才とは、ズレた価値を「持続可能な事業」に変え、かつ「社会に受容される形」で届ける能力である。その中には、プロダクトづくり全体──構想、設計、価格戦略、法制度への適応、市場との整合性──までも含まれている。
実行力
創造を形にするには、数えきれないほどの障害や迷いが伴う。初期の反対意見、上手くいかないプロトタイプ、進まない社内調整──そうした現実に直面したときに、それでも前に進むかどうか。
実行力とは、「やり抜く力」であり、ヒューマンスキルで言えば“胆力”に近い。続ける、耐える、もう一度やる。たとえ正解が見えなくても、一歩を踏み出し続ける姿勢がそこにはある。
極端なことを言うと、「お前はそれに命を賭けられるのか」。この問いに、YESと言える人間が「ズレ」を標準にするのだ。
ウォークマンもそうだ。外で音楽を聴くなんてという常識外れな発想を、ソニーは世界の標準に変えた。
きっかけは、ソニー創業者の一人・井深大が、海外出張中の飛行機の中でも音楽を楽しみたいという個人的なニーズだったと言われている。これを受けて開発が始まったポータブルカセットプレイヤーという構想は、当時のオーディオ業界の常識からすれば明らかに“ズレ”ていた。
実際、発売前にはソニーの特約店から総スカンを食らい、「音質がスカスカなヘッドフォンで誰が聴くのか」「録音機能がないなんて意味がない」と批判された。しかし、創業者のひとりである井深や盛田昭夫は「これこそが音楽体験の未来だ」と信じ、覚悟を持って押し切った。
結果としてウォークマンは、世界中で大ヒットを記録し、「音楽を持ち歩く」という行動そのものを新たな標準にしてしまった。
ズレを標準に変える──それが創造性の本質である。もちろん、創業者の言うことは絶対だという「求心力」や、勝算を見据えた冷静なビジネス判断もあっただろう。だが、それらすべてを支えていたのは、「これこそが未来だ」と信じ抜き、反対を押し切ってまでやり遂げるという胆力に他ならない。
熱量(内発的動機)
創造は時間がかかる。すぐに成果が出るとは限らない。周囲に理解されず、批判されたり、評価されなかったりすることもある。孤独や不安にさらされながら、それでも続ける力の根底にあるのは、「自分はこれをやるべきだ」という揺るぎない確信だ。
報酬や称賛ではなく、内側から湧き出る“Why”──「なぜ自分はこれをやるのか」という理由。その理由が強ければ強いほど、困難な状況でも前に進むことができる。そしてこの“Why”の強度こそが、創造を押し進めるエネルギー、すなわち熱量を決定づけるのだ。
ズレだけでは成功しなかった理由
セグウェイには革新的なズレと技術があり、製品化という実行もなされていた。では、何が足りなかったのか。それは「商才」と「求心力」の欠如だ。
高価格、法整備の遅れ、実用性の低さ、顧客ニーズとのミスマッチ、ネガティブなイメージ──いずれも市場と接続するための“翻訳”に失敗した結果である。また、「あの人がやっているなら信じられる」というような牽引役の不在も大きかった。技術やビジョンはあったが、人を巻き込む熱の磁場──求心力が形成されなかった。
Flashは成功した。だが時代が変わったとき、それに合わせて構造を変える“再創造”の構造を持ち得なかった。初期のズレが当時のWeb体験に革新をもたらしたことは間違いないが、やがてその革新が陳腐化し、他の技術で代替可能になったときに、Flashは“次のズレ”を提示できなかった。創造性を持続的に発揮するには、時代に合わせて構造自体を再定義し続ける力──“再創造の創造性”が求められる。Flashはそれを果たせなかった。
さらに当時、AdobeとAppleのトップ同士の意見対立も象徴的だった。両社とも強いブランドと技術力、そして求心力を持つ企業だったが、iPhoneという新しい時代の主導権を握りかけていたAppleの勢いは圧倒的だった。スティーブ・ジョブズが「Flashは過去の遺物だ」と明言したことで、技術的な評価を超えた“物語”としても、Flashは押し切られた。創造性を形にするうえでの「求心力」の差も、そこには明確にあった。
学術的にも証明されている「創造性は構造である」
私がここで提示している構造(ズレ × 求心力 × 商才 × 実行力 × 熱量)も、完全に独自なものではない。実は、心理学者テレサ・アマビール(ハーバード・ビジネス・スクールの教授)が1980年代に提唱した創造性の構成要素モデルは、重要なヒントを与えてくれる。
彼女は、創造性を「領域スキル」「創造的思考スキル」「内発的動機」という3つの構成要素で説明した。これは、創造性を“生まれ持った才能”ではなく“構成可能な力”と見なす重要な理論である。
私が提示している「ズレ × 求心力 × 商才 × 実行力 × 熱量」という構造も、部分的にはこの3要素と関連している。たとえば、ズレは創造的思考スキルと深く関わり、商才は領域スキルに、実行力や熱量は内発的動機と重なり合う。
ただし、完全に対応するわけではない。
たとえば「求心力」は創造的思考や内発的動機とつながりつつも、社会的関係性や人間的魅力、信頼の蓄積など“人間力”のような要素を含む。また、商才のような事業化スキルは、アマビールのモデルに含まれる「領域スキル」だけではカバーしきれない部分もある。
逆に、アマビールが強調した「創造的思考スキル」や「内発的動機」の一部は、本稿の構造5要素にも横断的に関わっている。つまり両者は相互補完的な関係にある。
アマビールの理論は、創造性の基礎構造を示してくれる。だがビジネスの現場で求められる創造性をより立体的に捉えるためには、それに現場的・戦略的な構造を加える必要がある。それが、本稿で提示している5つの構造要素なのだ。
アマビールの理論と私が提唱している構造は、どちらも「創造性は才能ではなく構造である」という主張を別の角度から示しているのであろう。
私の構造とアマビールの理論で共通しているのは、創造性は才能やセンスのような“素質”ではなく、後天的に獲得可能な“スキル”であるという考え方だ。
ズレを持っている人は多い。しかし、それを創造性として形にできる人は少ない。これは決して「発想力が足りない」わけではない。必要なのは、ズレを価値に変えるための構造――すなわち、求心力、商才、実行力、熱量というスキルの組み合わせだ。
構造を知り、構造を使えるようになる。それこそが、創造性を鍛えるということだ。誰でも、創造性は学ぶことができる。少なくとも「自分には創造性がない」と諦める必要など、どこにもない。
むしろ、「ズレ」を発見しただけで満足してしまうなら、それは単なる自己満足に過ぎない。それを社会に接続し、実行し、継続し、誰かの心を動かすものに変えてこそ、本当の創造である。
創造性を高めるには
まとめよう。
創造性を高めるには、アイデアの源泉となる「ズレ」に気づくだけでなく、それを着実に形にしていく実行力、継続を支える熱量、人を惹きつける求心力、そして価値として社会に届ける商才のすべてが求められる。
創造性とは、単発的なひらめきではなく、複数の力の掛け算によって初めて成立するものだ。どれか一つでも欠けていれば、ズレはただのズレで終わってしまう。
この5つの構造要素は、いずれも一筋縄ではいかない難しさを持つ。だが、すべてを自分一人で完結させる必要はない。チームや組織、外部の協力者と補完し合いながらでもいい。大切なのは、どの要素にも妥協せず、最大限に高めることだ。
なぜなら、この構造は“掛け算”であり、どれかひとつでもゼロなら、結果はゼロになる。たとえゼロでなくても、どれかが0.03のような極端に小さな数字であれば、創造性という積は著しく低下する。つまり、すべての要素に対して意識的に取り組み、丁寧に育てることが必要なのだ。
創造性を高めるとはいっても、何から始めればよいのか分からないという人は少なくない。私自身、創造性とは何かと問われても、かつてははっきりとした答えを持っていなかった。支援先の企業から相談を受けても、具体的にどう育てるべきかを言語化するのは難しかった。
今回紹介した構造化のアプローチが唯一の正解かどうかは分からない。だが、少なくとも「創造性とは雲をつかむようなものだ」と曖昧に扱うよりも、自分の創造性がどこで止まり、どこに伸びしろがあるかを整理する助けにはなったと信じている。
もちろん、この構造に限らず、他の枠組みや考え方を用いてもよい。だが、定義すら曖昧なまま、創造性という言葉を使い続けることは不毛であり、危うさもはらんでいる。
生成AI時代において、人間に求められる創造性はますます重要な資質となっている。だからこそ今、自分たちなりの言葉と構造で捉え直し、組織やチームの中でこのテーマについて議論を始めてみてはいかがだろうか。