創造性とは、ズレ × 実行 × 熱量 × 求心力 × 商才 である

 

前回の記事(生成AI時代の人間の創造性とは)では、スピッツの変拍子やピカソのキュビズムを例に、創造性とは「逸脱」や「ズレ」の中から生まれるものであることを説明した。既存の文脈を疑い、新たな秩序を打ち立てる力。そうした“文脈の外れ方”にこそ、創造性の本質があるという話だった。

だが今回は、もう少し我々に身近な領域である、ビジネスにおける創造性を取り上げたい。

アートの世界では、創造が評価されるまでに時間がかかっても構わない。ゴッホのように、生前は理解されずとも、死後に評価されることもある。だがビジネスは違う。時間軸が圧倒的に短い。「ズレ」からスタートした創造がビジネスとして形になることまでが、アートに比べると短い時間で達成することを求められる。

では、ビジネスにおける創造性とはいったい何か。「ズレ」に加えて、別の何かがあるだろう。今回の記事では、それを探索してみたい。

ズレること=創造的ではないのでは?

創造性が「ズレ」だけであるならば、変わり者はすべて創造性があることになる。私も昔から変わり者と呼ばれてきた。小学生の頃から、「及川くん、今その話をするタイミングじゃないでしょ」と言われたり、「お願いだから話を逸らさないで」とたしなめられたり。何度も経験した場面だ。

似たような経験がある人も多いだろうし、そういう友人を思い浮かべる人もいるかもしれない。常識を疑う力、枠にハマらない発想は、確かに創造性の源泉になり得る。だが、それだけで創造性があるとは言えない──私自身を含めて。

ズレている人がすべて創造性を発揮できるわけではない。ズレは創造性の“必要条件”ではあっても、“十分条件”ではない。

それでも私たちは、成功した変人たちを見て「やっぱり変わってる人がすごいんだ」と思ってしまう。それは一種の生存者バイアスだ。表に出てこなかった、無数の“ズレただけの人”は、記憶にすら残らない。むしろ、彼らは(私も含めて)ただの面倒くさい人だ。

では、なぜ彼らは「創造的」とは見なされなかったのか?ズレだけでは足りなかったとすれば、創造性に必要な他の要素は何なのか?

「ズレただけ」で終わった実例たち

「ズレ」はあったものの、ビジネスとしては成功を収めなかったものは枚挙にいとまがない。むしろ、それらの方が多いだろう。

たとえば、セグウェイ。

歩行を代替するパーソナルモビリティとして、セグウェイは当時としては非常に革新的な発明だった。スティーブ・ジョブズやジェフ・ベゾスもその可能性を高く評価していたという逸話も残っている。私自身も登場当時、リアルタイムでその話題に触れ、心を躍らせたひとりだ。

発表前は「何か世界を変えるようなものが出てくるらしい」と噂だけが先行し、その正体がパーソナルモビリティだと知ったときは、正直少し肩透かしを食らった。しかしその一方で、「これはこれで面白いかもしれない」という感覚も確かにあった。技術的な先進性は感じられたし、日本ではいつ利用できるのだろうと期待が膨らんでいった。

知人の中には、公道での使用が制限されていると知りつつも購入する人も現れた。おそらくそんなことをしたのは彼だけではないだろう。日本においてでさえ、ある種の熱狂があった。その現象の背後には、社会の現状と技術の提案との間にある、明確な「ズレ」があった。つまり、確実に存在する社会課題に対して、従来の発想の延長線上にない解決策。

だが、セグウェイは私たちの日常に定着することなく、2020年には製造が終了している。端的に言うと、失敗だ。

失敗は複数の要因が重なっていた。

第一に、価格設定が高すぎた。当時1台あたり約5,000ドル(約60万円)、機種によっては100万円を超え、手軽に買えるものではなかった。電動アシスト自転車という代替手段も存在し、そちらに顧客が流れた。

第二に、法的な整備が追いついていなかった。日本を含む多くの国で公道走行が認められておらず、使用シーンが限られていた。

第三に、実用性の低さがあった。重量は約47kgと重く、最高速度は20km/h。航続距離も短く、操作も体重移動という慣れが必要な方法で、誰もがすぐに使えるものではなかった。

さらに、事故によるネガティブ報道も影響した。そして何よりも、電動モビリティ市場そのものがまだ未成熟で、顧客ニーズと技術の“ズレ”が埋まらなかった。

別の例として、Adobe Flashを取り上げたい。Flashは、Webをリッチでインタラクティブな体験に変えるという極めて“ズレた”思想のもと登場した。テキストと画像中心だった1990年代のWebに対して、アニメーションや映像、音楽を動的に届けようとしたのだ。HTMLやJavaScriptでは実現できなかった自由な表現を可能にし、当時のWeb制作者の創造性を大きく解き放った。

つまりFlashは、「Webは読むものではなく、体験するものだ」という、当時の常識からは逸脱した価値観を提示していた。それは確かにズレていたが、一定期間、創造性を実現するエンジンとして大きな役割を果たした。

だがやがて、Flashが実現していたことの多くは、HTML5やCSS、JavaScriptといったWeb標準技術だけで実現できるようになっていく。いわゆる“オープンWeb”の進化である。私はむしろそちら側にいた人間なので、Flashなしでリッチな体験を可能にすることを使命としていた。それと時を同じくして、スティーブ・ジョブズがFlashにとどめを刺す。AppleのiOSがFlashに非対応を打ち出したのだ。セキュリティやバッテリー消費の問題もあり、Flashは“標準外”として次第に扱われるようになり、2020年には公式サポートも終了した。

Flashが当初提示した“ズレ”は、確かに創造性を開花させた。しかしそれを時代の変化にあわせて普遍的なものに定着させることはできなかったのである。時代の徒花と歴史の藻屑へと消えた。

ズレ以外に必要なもの。創造性は、構造である

創造性とはズレること──確かにそれは、創造の始まりではある。だが、ズレるだけでは創造性は生まれないことはすでに見たとおりだ。では、何が足りなかったのか?

この問いに対して、私が提案したいのは、以下のような創造性の定義だ:

創造性 = ズレ × 求心力 × 商才 × 実行力(胆力) × 熱量(内発的動機)

この式が意味するのは、どれか一つでもゼロなら、創造性はゼロになるということだ。算数がわかればわかるだろう。たとえ画期的なズレがあっても、実行されなければ空想で終わる。熱がなければ続かない。人を巻き込めなければ孤立する。商才がなければ社会に届かず、継続できない。

つまり、創造性とは「ズレ」だけで語るには不完全すぎる。むしろ、「ズレを価値に変える一連の構造」を持ち得たかどうかが問われている。

このように、創造性の5つの構造は、掛け算で成り立つ。とりわけ「実行力(胆力)」と「熱量(内発的動機)」は、他すべての要素──ズレ、求心力、商才──を支える“推進力”として機能する。実行力は「一歩を踏み出し続ける意志」であり、熱量は「なぜその一歩を踏み出し続けられるのか」という根本の問いに対する答えである。

では、1つずつ見ていこう。

ズレ(発散的思考)

創造の種。常識を疑い、違和感を抱き、あるべき姿に気づく力。これは前回のブログ記事で解説しているものだ。だがこれは、最初の入り口にすぎない。ズレだけでは社会を動かせない。

たとえば、「この業務フロー、そもそもなぜこうなっているのか? そもそもこれは必要なのか」と疑問を持ったとき。それはズレの第一歩かもしれない。日常の中に潜む小さな違和感を言語化し、問い直す姿勢が、創造の出発点となる。

求心力

「その人がやっているなら信じられる」という存在の重み。いくらズレがあっても、孤立していれば社会的な創造にはならない。

スティーブ・ジョブズがやるから信じられた。マネジメントや表現力、哲学と言語の整合性。求心力とは、人を惹きつけ、自然と協力者を生むような“存在の説得力”である。

変なこと言っている奴がいるな。でも、面白そう。◯◯が言っているなら、やらせてみようか。そういうことだ。私もそう言って頂けたことがある。

これは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが説いた説得の三要素──エトス(話し手の信頼性)、ロゴス(論理)、パトス(感情)に通じる話だ。創造性における「求心力」とは、これらをどう組み合わせ、いかに人を動かすかということに他ならない。

商才

ビジネスにおける創造性は、単に「いいアイデア」を出すことでは終わらない。継続的に収益を生み、社会に受け入れられる形にすることが求められる。

商才とは、ズレた価値を「持続可能な事業」に変え、かつ「社会に受容される形」で届ける能力である。その中には、プロダクトづくり全体──構想、設計、価格戦略、法制度への適応、市場との整合性──までも含まれている。

実行力

創造を形にするには、数えきれないほどの障害や迷いが伴う。初期の反対意見、上手くいかないプロトタイプ、進まない社内調整──そうした現実に直面したときに、それでも前に進むかどうか。

実行力とは、「やり抜く力」であり、ヒューマンスキルで言えば“胆力”に近い。続ける、耐える、もう一度やる。たとえ正解が見えなくても、一歩を踏み出し続ける姿勢がそこにはある。

極端なことを言うと、「お前はそれに命を賭けられるのか」。この問いに、YESと言える人間が「ズレ」を標準にするのだ。

ウォークマンもそうだ。外で音楽を聴くなんてという常識外れな発想を、ソニーは世界の標準に変えた。

きっかけは、ソニー創業者の一人・井深大が、海外出張中の飛行機の中でも音楽を楽しみたいという個人的なニーズだったと言われている。これを受けて開発が始まったポータブルカセットプレイヤーという構想は、当時のオーディオ業界の常識からすれば明らかに“ズレ”ていた。

実際、発売前にはソニーの特約店から総スカンを食らい、「音質がスカスカなヘッドフォンで誰が聴くのか」「録音機能がないなんて意味がない」と批判された。しかし、創業者のひとりである井深や盛田昭夫は「これこそが音楽体験の未来だ」と信じ、覚悟を持って押し切った。

結果としてウォークマンは、世界中で大ヒットを記録し、「音楽を持ち歩く」という行動そのものを新たな標準にしてしまった。

ズレを標準に変える──それが創造性の本質である。もちろん、創業者の言うことは絶対だという「求心力」や、勝算を見据えた冷静なビジネス判断もあっただろう。だが、それらすべてを支えていたのは、「これこそが未来だ」と信じ抜き、反対を押し切ってまでやり遂げるという胆力に他ならない。

熱量(内発的動機)

創造は時間がかかる。すぐに成果が出るとは限らない。周囲に理解されず、批判されたり、評価されなかったりすることもある。孤独や不安にさらされながら、それでも続ける力の根底にあるのは、「自分はこれをやるべきだ」という揺るぎない確信だ。

報酬や称賛ではなく、内側から湧き出る“Why”──「なぜ自分はこれをやるのか」という理由。その理由が強ければ強いほど、困難な状況でも前に進むことができる。そしてこの“Why”の強度こそが、創造を押し進めるエネルギー、すなわち熱量を決定づけるのだ。

ズレだけでは成功しなかった理由

セグウェイには革新的なズレと技術があり、製品化という実行もなされていた。では、何が足りなかったのか。それは「商才」と「求心力」の欠如だ。

高価格、法整備の遅れ、実用性の低さ、顧客ニーズとのミスマッチ、ネガティブなイメージ──いずれも市場と接続するための“翻訳”に失敗した結果である。また、「あの人がやっているなら信じられる」というような牽引役の不在も大きかった。技術やビジョンはあったが、人を巻き込む熱の磁場──求心力が形成されなかった。

Flashは成功した。だが時代が変わったとき、それに合わせて構造を変える“再創造”の構造を持ち得なかった。初期のズレが当時のWeb体験に革新をもたらしたことは間違いないが、やがてその革新が陳腐化し、他の技術で代替可能になったときに、Flashは“次のズレ”を提示できなかった。創造性を持続的に発揮するには、時代に合わせて構造自体を再定義し続ける力──“再創造の創造性”が求められる。Flashはそれを果たせなかった。

さらに当時、AdobeとAppleのトップ同士の意見対立も象徴的だった。両社とも強いブランドと技術力、そして求心力を持つ企業だったが、iPhoneという新しい時代の主導権を握りかけていたAppleの勢いは圧倒的だった。スティーブ・ジョブズが「Flashは過去の遺物だ」と明言したことで、技術的な評価を超えた“物語”としても、Flashは押し切られた。創造性を形にするうえでの「求心力」の差も、そこには明確にあった。

学術的にも証明されている「創造性は構造である」

私がここで提示している構造(ズレ × 求心力 × 商才 × 実行力 × 熱量)も、完全に独自なものではない。実は、心理学者テレサ・アマビール(ハーバード・ビジネス・スクールの教授)が1980年代に提唱した創造性の構成要素モデルは、重要なヒントを与えてくれる。

彼女は、創造性を「領域スキル」「創造的思考スキル」「内発的動機」という3つの構成要素で説明した。これは、創造性を“生まれ持った才能”ではなく“構成可能な力”と見なす重要な理論である。

私が提示している「ズレ × 求心力 × 商才 × 実行力 × 熱量」という構造も、部分的にはこの3要素と関連している。たとえば、ズレは創造的思考スキルと深く関わり、商才は領域スキルに、実行力や熱量は内発的動機と重なり合う。

ただし、完全に対応するわけではない。

たとえば「求心力」は創造的思考や内発的動機とつながりつつも、社会的関係性や人間的魅力、信頼の蓄積など“人間力”のような要素を含む。また、商才のような事業化スキルは、アマビールのモデルに含まれる「領域スキル」だけではカバーしきれない部分もある。

逆に、アマビールが強調した「創造的思考スキル」や「内発的動機」の一部は、本稿の構造5要素にも横断的に関わっている。つまり両者は相互補完的な関係にある。

アマビールの理論は、創造性の基礎構造を示してくれる。だがビジネスの現場で求められる創造性をより立体的に捉えるためには、それに現場的・戦略的な構造を加える必要がある。それが、本稿で提示している5つの構造要素なのだ。

アマビールの理論と私が提唱している構造は、どちらも「創造性は才能ではなく構造である」という主張を別の角度から示しているのであろう。

私の構造とアマビールの理論で共通しているのは、創造性は才能やセンスのような“素質”ではなく、後天的に獲得可能な“スキル”であるという考え方だ。

ズレを持っている人は多い。しかし、それを創造性として形にできる人は少ない。これは決して「発想力が足りない」わけではない。必要なのは、ズレを価値に変えるための構造――すなわち、求心力、商才、実行力、熱量というスキルの組み合わせだ。

構造を知り、構造を使えるようになる。それこそが、創造性を鍛えるということだ。誰でも、創造性は学ぶことができる。少なくとも「自分には創造性がない」と諦める必要など、どこにもない。

むしろ、「ズレ」を発見しただけで満足してしまうなら、それは単なる自己満足に過ぎない。それを社会に接続し、実行し、継続し、誰かの心を動かすものに変えてこそ、本当の創造である。

創造性を高めるには

まとめよう。

創造性を高めるには、アイデアの源泉となる「ズレ」に気づくだけでなく、それを着実に形にしていく実行力、継続を支える熱量、人を惹きつける求心力、そして価値として社会に届ける商才のすべてが求められる。

創造性とは、単発的なひらめきではなく、複数の力の掛け算によって初めて成立するものだ。どれか一つでも欠けていれば、ズレはただのズレで終わってしまう。

この5つの構造要素は、いずれも一筋縄ではいかない難しさを持つ。だが、すべてを自分一人で完結させる必要はない。チームや組織、外部の協力者と補完し合いながらでもいい。大切なのは、どの要素にも妥協せず、最大限に高めることだ。

なぜなら、この構造は“掛け算”であり、どれかひとつでもゼロなら、結果はゼロになる。たとえゼロでなくても、どれかが0.03のような極端に小さな数字であれば、創造性という積は著しく低下する。つまり、すべての要素に対して意識的に取り組み、丁寧に育てることが必要なのだ。

創造性を高めるとはいっても、何から始めればよいのか分からないという人は少なくない。私自身、創造性とは何かと問われても、かつてははっきりとした答えを持っていなかった。支援先の企業から相談を受けても、具体的にどう育てるべきかを言語化するのは難しかった。

今回紹介した構造化のアプローチが唯一の正解かどうかは分からない。だが、少なくとも「創造性とは雲をつかむようなものだ」と曖昧に扱うよりも、自分の創造性がどこで止まり、どこに伸びしろがあるかを整理する助けにはなったと信じている。

もちろん、この構造に限らず、他の枠組みや考え方を用いてもよい。だが、定義すら曖昧なまま、創造性という言葉を使い続けることは不毛であり、危うさもはらんでいる。

生成AI時代において、人間に求められる創造性はますます重要な資質となっている。だからこそ今、自分たちなりの言葉と構造で捉え直し、組織やチームの中でこのテーマについて議論を始めてみてはいかがだろうか。

 

MVPの“あの図”が誤解を呼んでいませんかね

 

プロダクト開発に携わる人なら、一度は見たことがあるはずだ。

「最初にスケートボードを作り、それをキックボード、自転車、バイク、そして自動車へと進化させていく」──あの有名なMVP(Minimum Viable Product)の図である。

 

© Henrik Kniberg, CC BY-SA 3.0 Making sense of MVP (Minimum Viable Product) - and why I prefer Earliest Testable/Usable/Lovable - Crisp's Blog

この図は、「最小限でも価値を提供できる形で始め、段階的に改善するべき」という、いわば“リーンスタートアップの心得”を端的に表現したものだ。

ずっと感じていた違和感

だが、私はこの図にずっと違和感を持っていた。 「スケートボードを欲しい人」と「車を欲しい人」はそもそも違う。 スケートボードを求めている顧客に対して、「これが最終的にあなたの欲しかったものですよね?」と車を差し出されても、戸惑うに違いないし、逆に車を求めている顧客にスケートボードを提示しても、価値として受け取ってもらえることはないだろう。

そして、現実の開発現場で「この図のようにやりましょう」と提案しても、経営層や現場からは慎重な反応が返ってくることもある。「これで本当にニーズ検証になるのか?」「品質が低いと言われたらどうする?」といったことを心配されているようだ。MVPの考え方に興味を持っても、あの図を見せられた瞬間に、違和感が先に立ってしまうみたいだ。

自動車の歴史を振り返ると

実際、自動車の誕生は、あの図のように「移動手段の進化」として一直線に進んだわけではない。

たしかに、自転車の登場を経てバイク(オートバイ)が発明される流れは存在した。しかし、それがそのまま「顧客のニーズに応じた段階的進化」だったわけではなく、多くは当時の技術的制約に起因していた。

たとえば、操舵性に課題があったことから、カール・ベンツが発明した最初の自動車「ベンツ・パテント・モトールヴァーゲン」は、前輪一輪・後輪二輪の三輪構造を採用していた。これは複雑な二輪操舵よりも、構造が簡素で安定性に優れる一輪操舵のほうが、当時の技術水準では現実的だったからである。

1886年に特許を取得したこの車両は、単に馬車にエンジンを取り付けたものではなく、最初から自力走行を前提に設計された世界初の自動車だった。ベンツのエンジンも、馬車用ではなく自動車搭載を念頭に開発されたもので、シャシーも鋼管フレームによる専用設計が施されており、軽量かつ堅牢という特徴を持っていた。

このように、自動車の誕生は単なる延長線上の進化ではなく、「まったく新しい価値提案」の登場であった。社会やインフラがそれを受け入れる形で変化していったという順序において、MVP的な段階構築とは異なる性質を持っていた。

実際、T型フォードが登場する以前の時代、自動車は一部の富裕層のための高価な乗り物であり、一般庶民にとってはなお馬のほうが現実的な移動手段だった。

当時の顧客ニーズは決して「手頃な車」ではなく、むしろ「信頼できる馬」であったとも言える。自動車の進化は決して顧客の明確な要望から段階的に導かれたものではなく、新しい技術の登場と、それに伴うインフラ・社会構造の変化が後から顧客の価値観を変えていったという側面が強い。

加えて、自動車の普及は、顧客の価値検証を通じたMVP的なアプローチではなく、技術革新による大衆化が後押しをしたものである。段階的な試作は行われていたものの、それは主に自動車としての完成度を高めるためのものであり、顧客との対話によって段階的に価値を検証・洗練していくというアプローチは、普及後にようやく現れたものだった。

T型フォードによって「いきなり完成品が安価になった」ことで、初めて一般庶民が自動車を購入可能になり、それまで高価すぎて選択肢にもなり得なかった自動車が、一気に現実的な選択肢として浮上した。つまり、顧客が「段階的に改良されたプロトタイプ」に価値を感じたのではなく、「これなら買える!」と思える価格で突如“完成品”が登場したことが、爆発的な需要につながったのである。

自動車業界の方々がこのような自動車の歴史や、その背後にある技術的な制約をどの程度ご存知かは分からないが、歴史的にも、特にその理由についてもMVPの図とは異なる経緯で自動車が発展してきたことを考えると、それを「顧客起点の開発モデル」として軽々に当てはめることに対して拒否反応を示すのも理解できる。

しかし、もしそうした拒否反応によって、今日理解しておくべきMVPの本質──つまり「最小限の価値を、早く届ける」という考え方──から遠ざかってしまうのだとしたら、それは非常にもったいない話だ。

とはいえ、それはあくまで比喩であって、MVPの本質を誤解していると言える。
重要なのは、「段階的に進化すること」ではなく、「最初から価値を届けられるかどうか」だ。

ということで、他の例を考えてみた

この問題を解きほぐすために、別の業種や文脈でMVP的なアプローチを考えてみることにした。より現実的で、かつ価値の最小単位に焦点を当てやすい分野だ。

たとえば、飲食業、教育、農業。

飲食業:

ポップアップストアやキッチンカーでの限定営業、クラウドキッチンでのデリバリー専業など、「小さく始めて価値提供し、フィードバックを得る」形が浸透している。

教育:

教材を完璧に作る前に、ワークショップや無料セミナーで反応を見る。
その場の対話から見えてくる「教えるべきこと」は、紙の上だけでは設計できない。

農業:

大量生産・ブランド化の前に、直売所やマルシェで少量販売し、味・価格・パッケージを調整。「作る前に、届けて、学ぶ」ことができる数少ない一次産業。

価値提案により異なる手法

飲食業の例をさらに掘り下げると、上に挙げたMVP的アプローチが常に正解とは限らないことが見えてくる。

価値提案の方向性によって、検証すべき内容とMVPの設計は大きく異なる。

  • 料理中心型:味や価格、提供スピード、利便性といった要素が主軸。クラウドキッチンや間借りを活用し、フィードバックやデータをもとに検証を進めるスタイル。

  • 体験重視型:空間体験、接客、内装、ストーリーテリングなど、五感に訴える統合的な価値を提供する。実店舗を起点とした高い完成度が求められる傾向がある。

料理中心型では、クラウドキッチンや間借りといった業態を活用することで、味や価格、提供スピード、利便性などをMVP的に検証できる。こうした形態が飲食業界で広まっている背景には、「いきなり実店舗を構えずとも、顧客の反応を見ながら価値検証ができる」という合理性がある。

ただし、クラウドキッチンや間借りといった手法であっても、いきなりフルメニューを揃えたり、高級食材を大量に仕入れたり、派手な広告展開で一気に認知を狙うような立ち上げ方をしてしまえば、それはMVPとは呼べない。

一方、体験重視型が目指すような没入感のある世界観、丁寧な接客、空間全体で演出される物語性などの価値は、クラウドキッチンで再現・検証するのは難しい。

だからといって、体験重視型の実店舗がすべてを完璧に整えてスタートしなければならないわけではない。内装の一部やカウンター越しの接客など、“最も重要な価値要素”に絞って高い完成度で提供し、他の要素は段階的に整備していく方法もある。こうした「部分的完成型店舗」は、体験重視型実店舗のMVPアプローチの一例といえる。

大切なのは、「最小限で価値の本質を届け、検証し、学ぶ」というMVPの精神がどこに宿っているかだ。手法や業態ではなく、提供しようとしている“価値の性質”に応じて、最適なMVPの形を設計することが求められる。

つまり、「クラウドキッチン=MVP」「実店舗=時代遅れ」といった単純な二項対立で語ることには無理がある。どの手法が適切かは、あくまで“提供しようとしている価値の中身”によって決まる。

価値提案ごとのMVPを考えようね

今回はMVPの有名な絵に違和感を感じていた理由を紐解き、別の事例を考えてみた。しかし、考える中で、単純に「これがMVPとしての正解だ!」と提示できるものは少なく、結局、価値提案ごとにMVPアプローチが存在するということを再認識した。

本当に問うべきは、「最小限でも、価値のコアは届けられているか?」という一点に尽きる。業種や文脈によって、その答えは異なる。 だからこそ、他人の図に頼るのではなく、自分のプロダクトに合ったMVPの形を、自分自身で定義していく必要があるのだろう。

ウチは“デジタル企業じゃない”という言い訳が通用する時代は終わった──企業のデジタル化4類型

「うちはプロダクト企業じゃないし」「デジタル企業でもないから」。──そんな言葉を耳にするたびに、私は引っかかりを覚える。

そう語る経営者やマネージャーに、これまで何度となく出会ってきた。

講演やクライアントへの支援の場で、私の出身企業であるGoogleやMicrosoftの話をすると、「うちはそういう会社じゃないから」と返されることがある。

その気持ちはよくわかる。だが、「自分たちとは違う」とラベルを貼ってしまうことで、実は大切な思考が止まってしまってはいないか。

そのままで、本当にいいのだろうか?

気がつけば、業界の常識を打ち破るようなプロダクトが次々と登場している。

移動を変えたUber、宿泊を変えたAirbnb、金融の常識を変えたSquareやStripe。彼らは最初から「デジタル企業であること」を前提にしている。

また、アナログな業務の最適化を支えるSalesforceやSlackのような存在もあれば、ユニクロがリアル店舗中心の小売から、ITを活用したサプライチェーンと顧客体験の変革を実現したような例もある。

その一方で、「うちは違う」と言っていた企業の多くは、じわじわと存在感を失っている。

ここで、私は声を大にして言いたい。「デジタル企業じゃない企業」など、もはや存在しないのだ。

このような現実に直面する中で、企業のあり方をどう捉え直せばよいのか?

今回は、その手がかりとして「企業のデジタル化4類型」というフレームワークを紹介したい。

なお、ここで対象としているのは、いわゆるIT企業ではない。製造業、小売業、金融、インフラ、サービス業など、主に非IT産業に属する一般の事業会社を念頭に置いている。

なぜそれが問題なのか

「うちはデジタル企業じゃない」。そう思っている時点で、もう危ない。

変化を「自分ごと」にできない企業から、静かに退場していく。

顧客はとっくにデジタルに慣れている。意思決定も購買行動も、スマホとクラウドの上で動いている。なのに提供する側が「昔ながらのやり方で十分」と思っていたら、選ばれる理由はなくなる。

行政の指示を待ち、前例が出るまで様子を見る——そんな“お作法”の間に、競合はもう次の価値を提供している。

デジタル化とは、単なる効率化やシステム導入の話ではない。価値の再設計、顧客体験の作り直しだ。

「自分たちは関係ない」と思っている企業こそ、最も危うい。

覚悟のないところから、顧客は静かに離れていく。

しかもこれは、1社の話では終わらない。日本の場合、「ウチだけ出遅れても何とかなる」という空気が蔓延している。だが横並び文化と護送船団方式が支配するこの国では、1社の停滞が業界全体を巻き込み、産業全体の進化を止めてしまう。

そしてその結果、日本という国そのものが、世界の競争から取り残されていく。

変わらないことが、最大のリスクになる時代だ。

4つの企業類型で考える

すべての企業は、いま何らかの形でデジタルと向き合っている。

しかし、その関わり方には大きな違いがある。

その違いを整理するために、「企業のデジタル化」を4つの類型に分けてみよう。

類型 説明
アナログ遺産 デジタル化に踏み出せず、旧態依然としたビジネスを続けている企業。市場変化に対応できず、衰退のリスクが高い。例:Blockbuster、Tower Records。
デジタル支援者 他社の業務やサービスをデジタルで支援する企業。例:Salesforce、Slack、Google、freee。
デジタル変革者 元はITを中核にしていなかった企業が、自らのビジネスモデルや価値提供をデジタルで変革。例:ユニクロ(店舗→店舗+オンライン)、ネットフリックス(DVD→配信)、IKEA(店舗体験と物流をデジタルで強化)。
デジタル創造者 デジタル技術を前提に、新しい市場構造や価値交換モデルを創出した企業。例:Uber、Airbnb、Shopify、メルカリ。

 

それぞれの類型は、デジタルとの向き合い方によって決まる。

まず、最も深刻なのが「アナログ遺産」だ。

デジタル化に背を向け、過去のやり方に固執したままの企業。変化を恐れ、「今までうまくいっていたから」と言って手を打たない。

だが市場は容赦ない。顧客はすでに別の体験に慣れている。そんな中で「変わらない」ことは、選ばれないことを意味する。かつて隆盛を誇ったBlockbusterやTower Recordsは、まさにその象徴だ。デジタル配信という流れに乗り遅れ、あっという間に市場から姿を消した。これは過去の話ではない。いま日本でも、同じことが静かに進行している。

一方、「デジタル支援者」は、他社の変化を後押しする側にいる。

クラウド、SaaS、AIといったテクノロジーを武器に、企業や個人の生産性を高める存在だ。SalesforceやSlack、Googleなどがその代表例であり、彼ら自身が“使われるプロダクト”であることで価値を生んでいる。

「デジタル変革者」は、自らが変わる道を選んだ企業だ。

もともとITとは縁遠かった業種が、デジタルの力でビジネスモデルや顧客体験を再構築している。ユニクロのように、リアル店舗を軸にしながらもサプライチェーンや在庫管理、マーケティング戦略など、業務全体をデジタルで再構築している企業が好例だ。

これは単なる顧客体験の話だけではない。原価率の改善、需給の精度向上、グローバル展開の柔軟性──そうした“見えない部分”でこそ、デジタルの破壊力は真価を発揮する。

そして「デジタル創造者」は、そもそもゼロから新しい産業や価値を創り出す存在。

彼らは最初から“デジタルであること”を前提に設計されている。

Uber、Airbnb、Shopify、メルカリ──彼らは既存の業界構造を飛び越え、新たなルールを作ってきた。

たとえリアルなモノを扱っていても、デジタルを前提とした価値提供をしていれば、それは“デジタル企業”だ。

逆に、業務にITツールを少し導入しただけで「うちはDXできている」と満足しているなら、それは単なるデジタルごっこでしかない。

もちろん、実際の企業はこの4つにきれいに分類できるわけではない。 多くの企業は、複数の側面を持ち、状況や部門ごとにグラデーションのように揺れている。 たとえば、既存事業は「変革者」だが、新規事業では「創造者」を目指しているといったケースもある。 そして、どこを目指すべきだろうか?

なお、「デジタル創造者」は理想的に見える一方で、当然ながらリスクも大きい。

既存のルールが通用しない領域で価値を生み出すには、技術だけでなく仮説検証力、資金力、実行スピードのすべてが問われる。

ゼロから市場を創るというのは、それだけ難易度が高く、失敗もつきものだ。

だが、それでも挑む価値がある。なぜなら、今後の成長市場は、既存の延長線上ではなく、創造によってしか生まれないからだ。

新規事業では“デジタル創造者”しかありえない

この4つの類型は、企業の現在地を示すだけではない。

特に重要なのは、新たな事業や市場に挑むときに、どの類型として振る舞えるかという点だ。

結論から言おう。

新規事業においては、「デジタル創造者」でなければ生き残れない。
なぜなら、新しい市場は不確実性が高く、既存のルールが通用しないからだ。

従来の延長線上にあるアナログな業務プロセスや価値の届け方では、スピードでもコストでも太刀打ちできない。

新しい顧客価値をゼロから定義し、それを最短距離で届ける手段として、デジタル技術は“前提”として組み込まれていなければならない。

業務の一部にITを取り入れるだけの“支援者的発想”や、古い構造を前提とした“変革者的アプローチ”では、新規領域では通用しないのだ。

もちろん、既存の企業がすぐに創造者になれるわけではない。

だが、新しい事業を立ち上げるなら、そのチームは最初からデジタル創造者として設計する覚悟が必要だ。

新規領域において「アナログ前提」の思考は、最初から敗北を意味する。もはや、変化の中で“デジタルを使うかどうか”を議論している余地はない。

新しい価値をつくりたいなら、まず自らが「デジタルである」ことを前提にするしかないのだ。

※もちろん、実務の現場ではもう少しグラデーションがある。既存企業が新規事業を始める際、まずは内部アセットを活かして変革者的に踏み出すケースや、創造者を支える汎用インフラとして支援者的に機能するケースもある。だが、それはあくまで“通過点”であり、主役になりたければ、最終的には創造者としての設計思想が不可欠になる。

デジタル企業である自覚を持とう

もはや、「デジタル企業になる/ならない」というのは選択の問題ではない。

どんな業種であっても、いまこの瞬間に問われているのは、“デジタルの力で何を生み出せるか”ということだ。

まずは、自分たちの企業がどの類型にいるのかを見極めてほしい。

そして、次の進化のステップを意識してほしい。

「うちはデジタル企業じゃないから」と言う前に、 自社が“価値を提供する仕組み”として、どれだけデジタルを活用できているかを問い直してほしい。

 

生成AI時代の人間の創造性とは

スピッツの「美しい鰭」は、映画『名探偵コナン 黒鉄の魚影』の主題歌としても知られる有名な楽曲だ。私も好きなスピッツの楽曲の1つで、リリース当初から何度も耳にしていた。


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ご存知のように、この曲のAメロは変拍子だ。私は学生時代にバンド活動に打ち込んでいたこともあり、8分の7が2小節続くという構造にも自然と気づいた。

流れるようなメロディーと草野マサムネの優しい歌声がいつも通り響く。しかし、その調和の中に、明確なリズムの「ずれ」が存在している。その違和感は不協和音とはならず、むしろ聴く者の心を捉える魅力として際立ってくる。

ふと思った。この変拍子のアイデアを、果たして生成AIは生み出せるだろうか?

もちろん、スピッツっぽい曲調を生成AIに頼むことは可能だ。実際、「スピッツ風のギターポップを作って」と指示すれば、それらしいコード進行やメロディを出力することはできるだろう。

だが、あのAメロのように「スピッツの文脈の中で変拍子を入れる」という判断が、AIに可能だろうか? 変拍子はスピッツの中でも珍しく、過去のデータだけを参照していれば、選ばれない構造だ。そこには明らかに、人間の「今回はこれがいい」と判断する意思が介在している。

そう考えたとき、もう一つ思い浮かんだのがピカソだ。彼もまた、文脈を逸脱した創造によって、美の定義そのものを書き換えた人物だ。

青の時代を経て、ピカソはキュビズムという新しい表現に辿り着いた。写実性や遠近法といった当時の常識から離れ、複数の視点や時間軸を1枚の画面に描き込むという構図。初めは理解されず、しばしば否定的に受け止められた。

これもまた、生成AIにできるだろうか?

過去を学び、その平均や傾向を予測する仕組みに、「逸脱を選ぶ意思」や「既存の文脈を壊す勇気」は宿るのか──そんな疑問が浮かんできた。

この問いは、単なる技術比較ではない。「人間の創造性とは何か?」という根源的な問題に、生成AIという鏡を通じて改めて向き合うための入り口であろう。

AIの創造は“予測”である

生成AIは、過去の膨大なデータを学習し、そのパターンから「もっともらしい」ものを生成する技術だ。そこには、明確な構造がある。たとえば言語モデルであれば、次にくる単語や文脈を統計的に予測し、画像生成AIであれば、過去に“美しい”とされた構図や色合いを再構成する。

ここにおいて、AIが出力する創作物の方向性を決定づけるのが「目的関数」である。最終的に「これは良い」と評価されるような出力を目指して、AIは学習を繰り返す。その目的関数は、しばしば「過去に高評価を得たかどうか」「大量のユーザーに好まれたかどうか」といった外的な要因に依存している。

言い換えれば、AIにとっての創造とは「過去の評価をもとに未来を予測すること」である。そこには確かに効率や再現性はあるが、“逸脱”や“ずらし”は自然には含まれない。

ここで、スピッツの「美しい鰭」のAメロに戻ろう。過去のスピッツの楽曲の多くが四分の四拍子であることを考えれば、生成AIが“スピッツ風の楽曲”を出力しようとしたとき、変拍子のAメロが選ばれる可能性は極めて低い。過去データに最適化される限り、それは“正解”ではないからだ。

同じように、ピカソのキュビズムも、当時の美術界における「良い絵」「上手い絵」の定義からすれば、あまりにも逸脱していた。つまり、それは“評価されにくい”出力であり、AIの目的関数に従えば生まれにくい構図だった。

もちろん、AIでも変拍子の楽曲やキュビズム風の画像を「偶然」生成することはあるかもしれない。だが、それを「良い」と判断して採用し、提示するためには、“過去の評価軸”ではなく、“別の軸”が必要になる。

そして、まさにそこに人間の意思がある。いま評価されないかもしれないが、自分はこれが面白いと思う、良いと思う──その判断を下す主体。それこそが、創造性の根幹ではないか。

AIの出力は確率的な「もっともらしさ」である一方、人間の創造性は確率の外にある“選択”ではないだろうか。

評価関数(社会の目的関数)と個人の目的関数のずれ

すでに説明したように、生成AIが過去のパターンに最適化された出力を行う以上、そこには「何を良しとするか」を定める関数、すなわち“目的関数”が存在する。そしてその目的関数は、多くの場合、「社会的に評価されたもの」に依存している*1

ここでは便宜的に、社会的な評価基準を「評価関数=社会の目的関数」と呼び、創り手自身が信じる価値基準を「個人の目的関数」として使い分けることにする。

この二つの目的関数は、しばしば一致しない。むしろ創造の初期段階においては、ずれていることの方が自然であり、健全ですらある。

現代のデジタル社会では、この“社会の目的関数”が、しばしばネット上でのインプレッション数やエンゲージメント率といった短期的な指標に置き換えられている。とりわけマーケティングや広告の分野では、「多くの人に届いたか」「バズったか」が評価の中心に据えられがちだ。

しかし、そのような指標に最適化されたクリエイティブは、必ずしも本質的な創造性を伴わない。むしろ、すでに確立された表現様式やテンプレートに寄りかかった“模倣”や“最適化”に留まりやすい。

だからこそ今、創り手に求められるのは、短期的な承認や反応に惑わされず、自らの目的関数に忠実であり続ける姿勢である。

たとえば、ゴッホは生前にほとんど評価されなかった*2。彼の個人の目的関数は、色彩に心理的・道徳的な重みを込め、人間の情熱や内面の苦悩、自然の本質を独自の手法で表現することにあった。それは、当時の社会が良しとしていた穏当で写実的なスタイルとは大きく異なっていた。

当時の主流は印象派に代表される穏やかな表現だった。ゴッホのように強い感情を込めた筆致、鮮烈な色彩、激しい構図は、画商や批評家にとっては“逸脱”と見なされ、評価の対象にはなりにくかった。

しかし彼の死後、20世紀に入り現代美術が発展していく中で、ゴッホの作品はその先駆けとして再評価されるようになった。つまり、当初は評価されなかった個人の目的関数が、時間を経て社会の目的関数と一致するようになったということである。

現代のデザインの分野においても、同じことが起きている。2013年、AppleはiOS 7で従来のスキューモーフィズムを捨て、フラットデザインに大転換した。立体感を廃したそのビジュアルは、「のっぺりしていて押しづらい」「ユーザビリティを損なう」と批判された。

Microsoftもその1年前にWindows 8で「Metro UI」を導入していたが、こちらもまた市場からの反発が強かった。だが、結果的にはWebやモバイルのUIにおいて、フラットデザインが標準的な選択肢となった。

ここでも、評価関数(社会の目的関数)──「操作しやすさ」や「視覚的親しみやすさ」といった評価基準が、「多デバイス対応」や「レスポンシブ性」「タイポグラフィ重視」などへと、時間とともに書き換わっていったことがわかる。

創造とは、必ずしも“今”の社会に評価されるために行うものではない。個人が持つ目的関数と、評価関数(社会の目的関数)が一時的にずれていても、未来の社会がその価値を受け止める可能性はある。

むしろ、創造の本質はその“ずれ”を恐れないところにあるのではないか。

創造とは目的関数の再設計である

生成AIは、「今あるもの」の延長線上に「次にありそうなもの」を描く。

だが、本当に創造的なものは、「次にあるべきもの」を選び取ることでしか生まれない。そこには、単なる予測を超えた“意志”がある。

それは目的関数の再設計に他ならない。今の評価基準をそのまま受け入れるのではなく、別の基準を自ら立てる。たとえ現時点で評価されなくとも、自分の中にある「良さ」を信じて表現する。そうした行為こそが創造なのだ。

この視点で見ると、創造とは本質的に「不整合」と向き合う営みである。

社会の目的関数と個人の目的関数が重なる瞬間ばかりではない。むしろ、最初は重ならないことの方が多い。

だからこそ、創造には勇気が必要になる。誰にも理解されない可能性を抱えながらも、自分の判断を信じて進む。そのプロセスにこそ、人間の創造性の源泉がある。
では、そのような“意志ある目的関数”をどのように持ち得るのか?

それには、次のような複合的な姿勢が必要だ。

  • 現在の評価軸を相対化する視点:今評価されているものが絶対ではないと知る
  • 中長期の視点を持つ構え:短期の反応に一喜一憂せず、時間とともに評価が変化しうることを理解する
  • 問いを持ち続ける習慣:「なぜこれが良いとされるのか?」という問いを繰り返す
  • リスクを取る意志:今の正解を一度手放す勇気を持つ

加えて、「ずれ」を育てる環境も重要だ。常に正解を求める場では、目的関数を再設計するような創造は生まれにくい。安全圏を外れて考える余白、違和感に立ち止まる時間、評価されないことを恐れない文化──そういったものが支えになる。

AIが過去の評価から「正解らしきもの」を導く存在であるならば、人間は「正解を壊してでも、意味を見出す存在」であるべきだ。

創造とは、まだ評価されない何かに対して「これは面白い」と言える勇気。

そしてその判断に、世界がいつか追いついてくるかもしれないと信じる信念である。
生成AIの出現は、人間の創造性の定義を再考させる契機となった。しかし、これは創造の終焉を意味するものではない。むしろ、表現にかかるコストが劇的に下がったことで、私たちは「何のために創るのか」という本質的な問いに、これまで以上に深く向き合う時代を迎えていると言えるだろう。

過去の最適解としての“正しさ”ではなく、まだ評価の定まらない“面白さ”をあえて選び取る──そのような選択こそが、生成AI時代における人間の創造性を示すものとなるのではないか。

【2025/05/19追記】

続編はこちら。

takoratta.hatenablog.com

*1:ここでは「目的関数(Objective Function)」という用語を、機械学習における数学的定義とはやや異なる、広義の意味で用いている。厳密には、生成AIの学習には交差エントロピーや平均二乗誤差などの損失関数が使われ、それらがモデルの出力を最適化する指標となる。しかしここでは、「AIが何を“良いもの”として学習し、どのような出力を目指すように設計されているか」という設計思想や価値判断の枠組みとして、この用語を比喩的に用いている。

*2:生前、彼の作品は1作品しか売れなかったと言われている。

Microsoft Work Trend Report 2025から読み解く『エージェントボス』の時代

働き方の未来は「マネージャーになること」

Devinのような自律型AIエージェントがソフトウェア開発の現場でコードを書き、AutifyのようなAIテスト支援サービスがテストケースの作成や実行を担うなど、AIがまるで本当の同僚や部下のように動き始めている。これは単なる開発現場だけの変化に留まらず、働き方そのものの根幹が変わりつつあることを示している。

Microsoftが公開した「2025 Work Trend Index Annual Report」は、まさにこのようなAIが遍在化する組織の未来を予測している。このレポートによれば、今後の組織では、あらゆる職種・レイヤーで、AIエージェントと人間が共に働くことが当たり前になるという。

このような変化の中で、すべての社員に求められるのは、AIを単なるツールではなく「チームメンバー」としてマネジメントする力である。つまり、AIを管理し、指示し、最大限の成果を引き出す能力が、すべての社員に求められる時代に入った。

ソフトウェアエンジニアをはじめとする技術者の中には、これまでマネジメント職に就くことを好まない人も多かった。私自身も、エンジニアのキャリアパスがマネジメント職だけに限定されることを良しとは考えていなかった。スペシャリストとして専門性を高め、技術によって会社に貢献する道も認められるべきだと考え、人材育成や組織づくりの支援でもその方針を提言してきた。

しかし、今後はこうした考え方も揺らぎ始めるかもしれない。AIエージェントと協働し、指示を与え、成果を最大化する力は、もはや一部のリーダー層だけに求められるものではなく、あらゆる社員(技術者を含む)にとっても不可欠なスキルとなるだろう。
専門性を高めるためには、進化し続けるツールを学び、使いこなす努力はこれまでも必要だった。しかし、従来のツールはあくまで「道具」であり、人格を持つものではなかった。ところが、現在のAIエージェントは、仮想的な人格を備え、まるで同僚や後輩、部下のように振る舞う存在になりつつある。

従来もチーム開発が当たり前となる中で、他のエンジニアとのコミュニケーションやコラボレーションは必須だった。しかし今後は、より「部下に近い存在」としてのAIエージェントに対して、明確な指示や育成的な関わりを求められる場面が増えるだろう。結果として、従来はマネジメント職にのみ期待されていたスキルが、より幅広い社員に求められるようになるかもしれない。

この変化の背景には、すでに限界に達しつつある現実がある。

MicrosoftがWork Trend Indexで示したデータによれば、現在の職場には次のような課題が存在している。

  • 世界の労働者の80%が、仕事をするための時間もエネルギーも不足していると回答している
  • 最低限の生産性向上を求めるリーダーは53%に上る
  • 仕事中の割り込みは2分に1回の頻度で発生している
  • 会議の60%は予定外のアドホックミーティングである
  • チャットの夜間・時間外でのやり取りは15%増加している

こうした実態は、もはや個人の労働スタイルの問題ではなく、組織全体のスピードを制約する要因となっている。

多くの企業では、すでにAIを用いた生産性向上に取り組んでいる。しかし、それだけでは不十分であり、人間自身の働き方そのものも変えなければならない。特に、知識労働を個人から分離し、創造性・判断力・関係構築といった人間ならではの強みに、より時間とエネルギーを割ける体制が求められている。

これからは「知識労働者」ではなく、エージェントを使いこなす管理者として、AIを持ち、教え、活用するモデルへと、企業における社員の役割が大きく変わっていくだろう。

「フロンティアファーム」の発生

AIエージェントを組織の一員とする新しい組織モデルを、Microsoftは「フロンティアファーム」と呼び、現在の組織とは完全に異なる形になると指摘している。

フロンティアファームの組織は、一貫した機能単位ではなく、目的に応じて柔軟に編成されるチームを主体とする。これらのチームは、人間とAIエージェントのハイブリッドによって支えられ、スピードとアジリティを維持しながら、短期間で価値を創出する。
このモデルでは、個々の専門性ではなく、目的達成を中心とした「ワークチャート」という概念に基づく組織構造が推進される。専門分野を越え、その時々の価値創造に最適化されたチームが編成され、完了すれば解散する。

なお、Microsoftのレポートでは「ワークチャート」について詳細な説明はなく、具体像は必ずしも明らかではない(と私は感じた)。マトリックス組織におけるプロジェクト型チームやタスクフォース、あるいはギルド型組織に近いとも考えられるが、単なるプロジェクト編成とは異なる可能性もある。レポートは、従来の職能(機能)型組織のサイロ化を問題視しており、企業の根本的な組織構造の変革を意図しているのだろう。

少なくとも、人間はより目的志向となり、スキル面はAIエージェントが担う方向に進み、オンデマンドの働き方がさらに加速する未来像が示唆されている。

現在、このような「フロンティアファーム」の組織モデルは一部の先進企業で実践され始めており、今後2年から5年のうちに、すべての組織がこの旅路を歩むことになるとレポートでは予測されている。

すべての社員が「エージェントボス」になる

フロンティアファームの組織では、すべての社員に「エージェントボス」としての能力が求められる。

「エージェントボス」とは、AIエージェントを構築し、育て、使いこなし、目的達成のために最大限の効果を引き出す力を持つ人を指す。

従来、マネジメントは一部のリーダー層の役割とされ、多くの技術者や現場の社員は、自分の専門性を高めていれば十分とされてきた。 しかし、エージェントが組織の行動様式や成果の出し方を抜本的に変えつつある今、その構造はもはや過去のものとなりつつある。

これからは、すべての社員が自ら目的を見定め、エージェントを駆使してチームを編成し、プロジェクトを推進し、成果を上げることが求められる。

エージェントと人間によるハイブリッドチーム。これが、これからの組織の当たり前になっていく。

では、エージェントと人間が共に働くとは、実際にはどういうことなのか。その違いを理解することが、新しい働き方を考える出発点となるであろう。

AIエージェントと人間には、本質的な違いがある。 AIエージェントは24時間365日稼働し、疲れることなく、並列にタスクを処理できる。一方で、人間はエネルギーと集中力に限界があり、休息を必要とする。

DevinのようなAIエージェントを使っていて感じるのは、そのリズムの違いだ。 まるで人間のように振る舞うが、依頼したタスクのターンアラウンドタイムは圧倒的に短い。 人間であれば、指示した後に少し間があり、自分の作業に戻る余裕がある。 しかし、AIエージェントは即座に応答してくる。 こちらがペースを意識しなければ、次々と返ってくるアウトプットに飲み込まれてしまう。

もしAIエージェントと人間に同じ感覚で依頼を出し続ければ、タスクの返却ペースに振り回され、自らの仕事のリズムを壊してしまうだろう。

これはレポートを読んだ私自身の実感でもあるが、すでに前段で説明したように、AIエージェントは常に稼働し、疲れず、並列処理ができる。 一方、人間は休息とリズムを必要とする。 こうした違いを無視し、同じ感覚で接してしまえば、さまざまな問題が生じるだろう。

人間だけの組織であれば、相手のコンディションや感情に配慮して働けばよい。 逆に、個人のアシスタントとしてAIエージェントを使うだけであれば、感情に配慮する必要はなく、遠慮なくタスクを任せることができる。

しかし、AIエージェントと人間が共存するハイブリッドな組織では、それぞれの特性を理解し、適切に接し方を切り替える必要がある。 タスクによっては人間が担うこともあれば、AIエージェントが担うこともある。 状況に応じた柔軟なマネジメントが求められる。

その中でも、最も気を配るべきは、やはり感情ではないだろうか。 人間は感情を持つ。 単なる業務指示ではなく、モチベーションやコンディションへの配慮が欠かせない。 一方で、AIエージェントには感情がないため、連続的なタスク投入にも機械的に対応できる。 しかし、同じ感覚で人間に接すれば、信頼関係を損ね、組織の力を削ぐことになりかねない。わかりやすい例えで言うと、まだまだ精度に課題のあるAIに対して、とことん詰めても良いとしても、成長過程にある若手の後輩に対してそれをやってはいけないわけだ。

エージェントと人間を明確に区別し、それぞれに合ったコミュニケーションとマネジメントを意識的に切り替えること。 それが、これからの組織運営における大前提となる。
また、Devinの例でも説明したように、AIエージェントのように即座に応答が返ってくる存在と、人間のように時間をかけて進める相手が混在する環境では、マネジメントのリズムも見直す必要がある。 マネジメントする側は、AIと人間で進め方を切り替えるだけでなく、タスクを依頼した後の時間の使い方や、自身の仕事の設計そのものを見直す必要がある。

AIエージェントと人間が共存する世界では、従来の延長線上にある働き方は通用しない。 我々はどのような組織を作っていけるだろうか。