Facebookのノート (Notes) を見る方法
Facebookにノート (Notes) という機能があった。通常の投稿とは別に記事のような形で文章を作成し、それを共有できる機能だ。
creating and editing notes will be unavailable after October 31. We know your posts are important, so any published notes will stay published on your profile. However, any unpublished drafts will be deleted.
この投稿にあるように、Notesは昨年10月をもって新規作成ができなくなったが、過去に書かれたものはアクセスできる。
はずである。
しかし、2022年4月11日現在、Notesという機能/セクション名はどこにも見つからず、検索してもひっかからない。アクティビティログから辿れば見つかるのかもしれないが、膨大な中から目を皿のようにして探すのは現実的ではない。
自分も今回、過去に書いたNoteを参照する必要があり、様々な手段で発掘を試みるものの見つけることができずに諦めかけたのだが、英語での情報をもとにどうにか発掘に成功した。
周りくどいことは抜きにして解決策を書くと、以下のURLからNoteの一覧を得ることができる。そこから該当のNoteをクリックすれば表示させることができる。
https://www.facebook.com/[なんでも良い]/allactivity?category_key=notecluster&privacy_source=access_hub&entry_point=ayi_hub
この方法もいつまで使えるかわからないので、必要なNoteは早めにサルベージしておこう。
リリースとローンチ
自分は言葉に気を配るほうだと思う。
単純な質問されたときにも、内容を正確に理解するために、「その◯◯ってどういう意味?」と聞いたり、「◯◯の定義は?」と聞いたりすることも多い。
面倒臭い人間だという自覚はあるが、プロダクトを作り育てるチーム内でビジョンを共有し、ディレクションを合わせるためには、面倒臭くなくてはならないというのが持論だ。日本社会はハイコンテキストな社会、すなわち「阿吽(あうん)」の呼吸で物事を進められるほど、コンテキスト(前提となる知識や価値観)が共有されている社会と言われるが、甚だ疑わしい。そこかしこで、「実は思っていることが違った」ということが起きている。ドメイン駆動開発(DDD)のユビキタス言語が必要なのもこのような現状があるからだ。
このように、言葉の定義にこだわる毎日を送る中、以前から気になっていた言葉がある。
リリース と ローンチ だ。
同じような意味合いであるが、何かニュアンスが違う。気になって調べてみたが、確固たる定義があるわけでも無いようだった。
このStackexchangeの記事では、リリースはソフトウェアを公開すること、またはソフトウェアが完成した状態としており、一方のローンチは最初のソフトウェアのリリースや注目に値するマイルストーンのリリースを指すとしている。
また、こちらのQuoraの記事では、リリースはプロダクトを公開することとし、ローンチはプロダクトをリリースするプロモーションするためのマーケティング活動などを指すとしている。
この他にも多くの解説がある。日本語での説明も多い。しかし、これと言った決め手は無いようだ。ほとんど同じ意味だとか、言い換えも可能と言われていることも多い。
自分ごととして振り返ってみると、以前はローンチということは無かった。いつもリリースだった。
マイクロソフトでWindowsの開発をしているとき、プロジェクトの終了はRTMだった。Release To Manufacturing、つまり工場出荷という意味だ。
これで開発は終了、もう触っちゃいかん!となると、本社でゴールデンマスターと言われるOSをインストールするためのメディア(当時はCD-ROMだった)が用意され、それを工場に引き渡して完了となる*1。
当時使っていた言葉はすべて「リリース」。記憶を辿っても「ローンチ」という言葉を使った覚えは無い。
時は流れて、Web系のプロダクトを開発するようになった。この頃から「ローンチ」という言葉を使うようになった。
違いは何か。
リリースという言葉は、プロダクト以外にも「プレスリリース」などで用いられる。一般的にも釣った魚を逃す場合に用いる。つまり、ものを「解き放つ」という意味合いが強いのだろう。以前のWindowsのように、提供開始になったら、一旦終わりというパッケージプロダクトの場合、長く温めていたプロダクトを世に放つので、まさにリリースだろう。
一方、ローンチという言葉は、船を進水させたりロケットを発射するときに用いる「送り出す」という意味だ。船もロケットも送り出して終わりではなく、その後も対応が必要だ。ロケットが発射されても、目的地点に到達するためにはなんらかの操縦*2が必要だ。このように、ローンチは出した後も丁寧に制御していくものに対して使われる。
このように考えると、「作り育てる」ことが多くのプロダクトやサービスに求められるようになった今の世の中においては、リリースよりもローンチが必要になっていると言えるだろう。
たかが言葉だが、リリースと言っていたものをローンチと言い換えて、育て続けることを意識するようになるだけで、プロダクトづくりに対する意識も変わるのではないか。
従来のモノづくりからコトづくりに転換を進める企業の方には、こんなことから進めてもらっても良いのかもしれない。
小学生のプログラミング教育に必要なことは「(良い体験としての)全能感」を得ることではないだろうか
小学校でのプログラミング教育が開始され、すでに2年が経とうとしている。新型コロナウィルス(COVID-19)による混乱の結果、GIGAスクール構想は前倒しとなったが、プログラミング教育についてはそれどころでは無くなった学校も多かったようだ。そのような実態は特定非営利活動法人みんなのコードが行った「プログラミング教育実態調査」からも垣間見ることができる。
知人のお子さんがちょうど小学校の低学年ということもあり、最近、再度小学校のプログラミング教育について考えることが増えている。「再度」と言ったのは必修化される前に、自宅近くの小学校の公開授業を見学したり、みんなのコードや未踏ジュニアの担当者とも意見交換していたことがあり、そのときにも色々と考えを巡らせたことがあったからだ。そのときの考えは以下のnoteの記事として公開した。
ここで述べているのは、以下の2点だ。
- プログラミング的思考教育とかいうぬるい考えではなく、プログラミングを教えるべきではないか
- しかしながら、今日の小学校の教師の事情を考えると、無理に授業として組み込むと放っておいて貰えれば後々プログラミングが好きになる子を潰してしまうこともあるのではないか
新型コロナウィルスのパンデミック禍で日本がIT後進国であることが国民にも広く知られるようになり、STEM教育の中心ともなるプログラミング教育はもはや待ったなしであろう。
というようなことを最近考える中で、子どもへのプログラミング教育に必要なことは従来の詰め込み型教育とは真逆の子どもに全能感を感じさせることではないかと思うに至った。
コンピューターを自由に制御することができるプログラミングとは、そのコンピューターの支配者となることを意味する。自分が触っているパソコンやスマホなどを、自分がプログラミングをしたとおりに動かすということは、そのパソコンやスマホの支配者となることに他ならない。
私が解説を書いた「Coders(コーダーズ)凄腕ソフトウェア開発者が新しい世界をビルドする」にも同様の指摘がある。
小さいけど、自分が制御できる世界を持つことができる。小世界の支配者になることができるのがプログラミングだ。
この全能感は、しかしすぐに打ち崩される。支配していたはずの世界でのほころびが見つかる。おかしい、こんなはずではない。友達に試して貰ったら、予想外の使い方をされて、止まってしまった。
思い通りにならない現実に打ちのめされながらも、目を皿のようにして探して見つけた間違いを修正する。動いた。やはり私はこの世界の主なのだ。
子どもは、小さくても良いので自分の世界を持ちたがる。誰もが自分の秘密基地を作ったことだろう。あれなどは、小さな世界を所有することに他ならない。
全能感は一般的にはあまり良くない感覚とされている。なので、ここでミスリードされないためには、冗長となるかもしれないが、補足を加えよう。ここで言っている全能感とは「良い体験としての全能感」だ。良い体験とは、何度も何度も挫け、自分ができることの限界を知り、それを再度打ち破ることの繰り返しの体験だ。コーディングとデバッグと読み替えても良い。または、知らないことを知ることと考えても良い。
子どもへのプログラミングでは、このような「良い体験としての全能感」を味わって貰いたい。達成感を得ながらも、挫折を繰り返す中でものづくりの喜びを知る体験だ。
これは従来の学校教育での正解を教える方法とは根本的に異なるだろう。その意味では、プログラミング教育はSTEM教育としての立場だけではなく、自らが考える子どもを育むという今後の教育の重要な一歩となるのではないだろうか。
Audibleが最近のお気に入りになった
最近、Audibleが気に入っている。
オーディオブックは以前から知人に勧められたりもしていたのだが、聴きながら他のことをするだろうことを考えると、聴き逃すことが多いだろうと予測して、実際に試すことは無かった。
きっかけは年末年始の課題図書だった。
昨年末、支援先の1つの社内イベントでその会社の役員と対談した。イベントは社員の方々にお勧めの本を紹介し合うというものだったが、役員の方が推薦した本の1つが「サピエンス全史」だった。
サピエンス全史については、このイベント以前にも他の方からお勧めだというのは聞いていた。しかし、上下巻合わせて600ページを超えるというボリュームに圧倒されて、読む機会を逸していた。だが、年末年始。時間はたっぷりある。COVID-19もオミクロン株でまた感染拡大が見えており、旅行に行く予定などがあるわけでもない。自分を追い込むにはベストなタイミングだった。
その役員の方や普段良く打ち合わせをしている社員の方々に約束した。年末年始で完読すると。
さっそく、Kindleで購入し読み始めた。確かに面白い。さすがベストセラーになるだけはあると思ったものの、どうにも冗長に感じた。冗長というのはネガティブな言い方だが、豊富な事例や人類の歴史をまるでその当時に戻ったかのようにイメージ豊かに饒舌に語る様が、ビジネス書を読むように結果を性急に求める自分には合わなかった。少し読んでは飽きてしまい、他のことをやり始める。せっかく時間があるのに、このままでは読み終わらない。
焦りを感じ始めたころ、Amazonが絶妙なタイミングでAudibleを勧めてきた。目と耳から読み進めるという戦略に活路を見出すべく、すぐにAudibleで購入して、読み始めた(聴き始めた)。
最初はどうなることかと思ったが、思いの外頭に入ってくる。当初心配した通り、ボーッとしていて音声が先に流れてしまっていることも多々あったが、大意を掴むには全く問題ない。もし興味があるなら、Kindleで読むか、音声を聴き逃したところまで戻して、また再生すれば良いのだ。聴き逃しても良いと割り切ることで心が楽になり、とにかく先に進めた。
すると面白い現象が起きてきた。
Audibleを聴くために積極的に散歩やランニング、ドライブをするようになったのだ。
リモートワークが中心になった当初、移動が不要になった浮いた時間を仕事で埋めてしまい、すっかりインプット時間が無くなってしまっていた。しかし、その後、不要だったのは通勤電車での移動という苦痛な体験であり、その時間で行えていた仕事以外の体験、特にインプットは残すべきなことに気づいた。これについては私がダイヤモンド・オンラインで持つ連載でも説明している。
通勤や移動に相当する時間はしっかりと確保し、そこを自分時間としてインプットに活用する。そう考えてからは積極的に散歩をするように心がけていたのだが、しかし寒い。そんなときにAudibleが自分を部屋から引きずり出すモチベーションとなるものとして登場した。
サピエンス全史を聴くために散歩やランニングやドライブをする。それが楽しみとなり、いつしか日課となり、そして無事聴き終えた。
すると、次の書籍をまた聴きたくなった。タイミング良く、1月下旬からはAudibleがAmazon Primeビデオのように聴き放題サービスとなり、12万冊がその対象となったので、その中から気になるものを次から次へと聴いてみた。Kindle Unlimitedと異なり、聴き途中の本が何冊あっても良いようなので、つまみ食いのように色々と聴いた。中には期待外れだったり、難解で途中で聴くのをやめてしまったものもあるが、結構何冊も聴いた。
実は、もう1つのブログで紹介したデールカーネギーの「人を動かす」もAudibleで聴いたものだ。
「人を動かす」のような古典的な名作や、ベストセラーになっていたけど、読んでいなかった本など、Audibleで聴いてみるというのも良い体験だった。Kindle Unlimited対象となっていないものもAudibleでは無料で聴けるのも多いようだ。
また、夜、なかなか寝付けない*1ときや夜中に起きてしまったとき*2など、以前は良くないとわかっていても、スマホを覗いてしまい、余計に寝れなくなってしまっていたのだが、最近ではこんなときはAudibleを聴くようにしている。こういう寝付けないときは、柔らかい内容の本にするか、逆に思いっきり難解*3にしている。
このように最近すっかりAudibleにはまっている私ではあるが、たまに「読み」が間違っていたり、わかりにくいものがあるのが気になっている。例えば、リーンスタートアップの本で、「配送」って読んでいるが、これは「デリバリー」とカタカナで読むのが正しいはずだ*4。あと、目次がわかりにくく、本をペラペラめくって、あたりをつけて該当箇所だけ読む(聴く)というのがしにくい。しっかりと内容を把握するには、やはり書籍(電子書籍を含む)との併用が必要と感じている。実際、「人を動かす」はそのようにして、Audibleの後に書籍も購入した。
音声メディアにはPodcastなどを以前から注目していたが、オーディオブックもかなり使えるということがわかり、色んな形でのインプットが可能になった。技術の進歩とメディアの多様化に感謝したい。
商材とは
以前一時的に支援していた会社では、プロダクトのことを「商材」と呼んでいた。微妙に違和感がありながらも放置していたのだが、少しこれについて考えてみた。
実は、決して短くない私の人生の中でも「商材」という言葉を聞くことは、この会社の支援をするまでほとんど無かった。
この種の用語としては、外資系にいたこともあり、「プロダクト」という言葉が一番馴染みあるものだった。その次にプロダクトの日本語として一番適切な言葉であろう「製品」、そして「商品」だ。
「商品」という言葉でさえ、違和感があり、以前に 製品と商品 - Nothing ventured, nothing gained. というブログ記事を書いたことがある*1。
商品と製品とプロダクトの違いさえ微妙なところに、商材と来た。これは一体なんだ。
調べてみると、商材は売る側が使う言葉であり、商品は売る側と買う側のどちらも使う言葉だという説明があった。確かにそうだ。客が「その商材をください」とか「この商材について質問があります」とかは言わない*2。
商材とは「材」という言葉が示すように、部材であり、通常はこれに何らかの付加価値を追加して、売り物とする。わかりやすくいうと、完成品ではない。他の何か、または誰かによる補完される必要があるということだ。
確かに、商材という言葉を使っていた支援先は、その商材を単体で売ることはほとんど無かった。他商材と組み合わせたり、SI事業としてソリューションを提供する場合の部材として使っていた。
一方、昨今声高に叫ばれるようになったProduct-Ledという言葉。これはプロダクトがそのプロダクト自体の力により売れるようになるということだ。営業からのアプローチが無くとも、顧客がフリーミアムなどからプロダクトの魅力を認知し、それにより利用を開始し、契約に至るというパスを経るパターンだ。
これがすべての事業において主流になるわけではないが、商材と呼んでいる会社からはこのPLG (Product-Led Growth) が起こることはない。
商材という言葉で説明される事業形態には人が確実に介在する。スケールさせるためには人的リソースの投入が不可欠である。労働集約モデルに依存し続ける。
商材という言葉を社内で使っている会社はここまで考えていないだろう。しかし、言葉には魂が宿る。何気なく使っている商材という言葉から、他の何かにより補完されることを前提としたものしか作らないというマインドセットが醸成される。
PLGが正義でもないし、従来型の営業活動が否定されるものでもない。PLGから始まった事業でも、さらにスケールさせるためには従来の営業的なアプローチであるSLG (Sales-led Growth) と組み合わせたハイブリッドが必要になることもあると言われている。
しかし、商材と言い続けることにより、PLG的な発想をすることをすることを停止しまっていて、PLGで殴り込みをかけてきている新興企業と戦うことができるのかは真剣に考えた方が良いであろう。