小学生のプログラミング教育に必要なことは「(良い体験としての)全能感」を得ることではないだろうか
小学校でのプログラミング教育が開始され、すでに2年が経とうとしている。新型コロナウィルス(COVID-19)による混乱の結果、GIGAスクール構想は前倒しとなったが、プログラミング教育についてはそれどころでは無くなった学校も多かったようだ。そのような実態は特定非営利活動法人みんなのコードが行った「プログラミング教育実態調査」からも垣間見ることができる。
知人のお子さんがちょうど小学校の低学年ということもあり、最近、再度小学校のプログラミング教育について考えることが増えている。「再度」と言ったのは必修化される前に、自宅近くの小学校の公開授業を見学したり、みんなのコードや未踏ジュニアの担当者とも意見交換していたことがあり、そのときにも色々と考えを巡らせたことがあったからだ。そのときの考えは以下のnoteの記事として公開した。
ここで述べているのは、以下の2点だ。
- プログラミング的思考教育とかいうぬるい考えではなく、プログラミングを教えるべきではないか
- しかしながら、今日の小学校の教師の事情を考えると、無理に授業として組み込むと放っておいて貰えれば後々プログラミングが好きになる子を潰してしまうこともあるのではないか
新型コロナウィルスのパンデミック禍で日本がIT後進国であることが国民にも広く知られるようになり、STEM教育の中心ともなるプログラミング教育はもはや待ったなしであろう。
というようなことを最近考える中で、子どもへのプログラミング教育に必要なことは従来の詰め込み型教育とは真逆の子どもに全能感を感じさせることではないかと思うに至った。
コンピューターを自由に制御することができるプログラミングとは、そのコンピューターの支配者となることを意味する。自分が触っているパソコンやスマホなどを、自分がプログラミングをしたとおりに動かすということは、そのパソコンやスマホの支配者となることに他ならない。
私が解説を書いた「Coders(コーダーズ)凄腕ソフトウェア開発者が新しい世界をビルドする」にも同様の指摘がある。
小さいけど、自分が制御できる世界を持つことができる。小世界の支配者になることができるのがプログラミングだ。
この全能感は、しかしすぐに打ち崩される。支配していたはずの世界でのほころびが見つかる。おかしい、こんなはずではない。友達に試して貰ったら、予想外の使い方をされて、止まってしまった。
思い通りにならない現実に打ちのめされながらも、目を皿のようにして探して見つけた間違いを修正する。動いた。やはり私はこの世界の主なのだ。
子どもは、小さくても良いので自分の世界を持ちたがる。誰もが自分の秘密基地を作ったことだろう。あれなどは、小さな世界を所有することに他ならない。
全能感は一般的にはあまり良くない感覚とされている。なので、ここでミスリードされないためには、冗長となるかもしれないが、補足を加えよう。ここで言っている全能感とは「良い体験としての全能感」だ。良い体験とは、何度も何度も挫け、自分ができることの限界を知り、それを再度打ち破ることの繰り返しの体験だ。コーディングとデバッグと読み替えても良い。または、知らないことを知ることと考えても良い。
子どもへのプログラミングでは、このような「良い体験としての全能感」を味わって貰いたい。達成感を得ながらも、挫折を繰り返す中でものづくりの喜びを知る体験だ。
これは従来の学校教育での正解を教える方法とは根本的に異なるだろう。その意味では、プログラミング教育はSTEM教育としての立場だけではなく、自らが考える子どもを育むという今後の教育の重要な一歩となるのではないだろうか。