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デジタルとアナログと思いやりとかかる手間と 〜 手書きと電子メールをめぐって

少し前に、全文万年筆直筆でないと講演の依頼は受けないという発言*1の賛否をめぐり議論が生じたことがあったが、これだけでなく、手書きなどのアナログな手段が電子メールなどのデジタルな手段よりも丁寧であり、大事なお願いをするときなどは、きちんと手書きで対応すべきだという意見は根強い。履歴書なども手書きにすべきだという意見もある*2

個人的には、郵送された葉書や封書は保管場所にも困るし、用件が済んだ後に廃棄するのも手間なので、メールのほうがありがたいが、このデジタルよりもアナログのほうが丁寧であるというのはどのような根拠なのかを考えてみる。

丁寧ということをもう少し分析すると、それは「思いやり」があったり、「想いを伝える」ものであったり、「おもてなし」の心を伝えるものであったりする。これらはすべて「手間のかかる」ことである。手間=時間であり、面倒くさいことである。時間がかかり、面倒くさいことをしてでも、この手段(アナログ)を取ることで相手への想いを伝えることができる。

今年始めの「デジタル社会に生きるということ」という記事でも書いたが、デジタル化により情報が劣化することは否めない。誰が書いても同じな無機質なフォントよりも、個性豊かな各人それぞれの手書き文字のほうが伝わる情報は多い。涙で文字が滲んでいたなら*3、そこから何かを読み取れる。

情報が劣化するということと引き換えに、デジタル化は情報の大量生産や広域への配布、再構築を可能にし、文明の発展に寄与してきた。だが、これらは個人対個人のやりとりには関係ない。手間がかからないこと、それはすなわち相手への想いが不足していることであり、思いやりに欠ける行為である。

だが、本当にそうであろうか。

一昔前を考えてみると、デジタル処理こそが手間がかかる行為であり、丁寧な手段であった。デジタル処理というよりも、印刷というほうが良いかもしれないが、「手書き < 印刷」だった。案内状の送付などで、送付先が少ないにもかかわらず、印刷された綺麗な案内状が届くと、そのおもてなしに感心した。論文のアブストラクトはタイプライターでの記述が求められた。いずれもデジタルなフォントによる読みやすさを追求した場合の手間が手書きよりもかかった。今でも、プリントアウトされた資料に不足部分があった場合、時間が無いからといって、それを手書きで補足したら、それは手抜きにしか思われない。文字以外の情報、たとえば図なども、ラフな手描きのスケッチよりも、コンピューターで描かれたもののほうがありがたられることが多い*4

つまり、手書きが常に手間がかかり、それが丁寧であるとは限らなかったし、今でも限らない。

ただ、デジタル技術の進化に伴い、パーソナルコンピューターやインターネットが普及し、一般的な情報ならば、デジタル手段のほうが手間がかからなくなったのは事実である。手紙やはがきなどの場合、それが顕著である。いまや「手書き > 印刷 > メール」の状況だ。ここ15年くらいの年賀状を思い出すと、最初は手書きもしくは印刷だったものが、プリントゴッコの登場により簡単に印刷できるようになり、そして今はメールである。年賀状はその役割をメールに取って代わられようとしている。いや、年賀状くらいは手書きでと主張する人も多い。だが、そのような人であっても、宛名を含めたすべてを手書きにしている人は多くない。

すなわち、文明が新しい情報の伝達手段に移行しようとしている過渡期と考えることができる。

ここで、情報が相手に届くまでのプロセスを考えてみると、それは2段階に分けられる。「生成」と「流通」である。

情報の生成とは、たとえば文書を作成するプロセスで考えると、文章を「考える」ことであり、「構成する」ことであり、「推敲する」ことである。そして、最終的には「清書」し、それを完成させる。

アナログ手段をとるならば、「考える」際には、紙の参考文献を読み、分からない言葉などは紙の辞書にあたるなどして考える。「構成する」際には、鉛筆やペン、万年筆を用い、紙の上で構成する。「推敲する」にも紙の上で行う。限られた紙というスペースの上で何度も書きなおしや文章を移動したりする。最後の「清書」では間違いは許されない。一文字書き忘れただけでも、それが書かれていた紙のすべての文章の書き直しが生じる。アナログ手段をとった場合には、これだけの手間がかかる。

デジタル手段では、「考える」ことも「構成する」ことも「推敲する」ことも「清書する」こともすべてデジタルデバイス上で可能である。Webで検索すれば、分からないことはほとんど即座にわかるだろう。文章を引用したかったら、コピー&ペーストで済む。推敲時にも、何度でも書き直しやコピー&ペーストができる。情報の生成と分解と再構築が容易であるというデジタルの利点が個人の文書作成においても活かされるのだ。圧倒的に手間はかからない。

情報の流通でも同じである。文書を流通させたい場合、手紙にして郵送することがアナログ手段としては一般的である。複数の配布先があるならば、清書して、郵送という手間を繰り返すことになる。デジタル手段では、メールで簡単に送れる。こちらもデジタルのほうが手間はかからない。

こう考えると、結局、アナログ手段が手間がかかり、デジタル手段により、それがお気楽になった分、やはり相手への思いやりが欠けることになるのが多いのではないかとも見える。しかし、考えなければいけないのが、手間、すなわち時間は有限であるということである。人があることに割ける時間には限度がある。あり得ないことであるが、もし24時間、そのことだけをやれたとしても、それでも締め切りはある。いつまでにはこの情報を届けたい、届けなければいけないという時間的な制約がある。つまり、総量制限があると考えられる。

そのように考えると、情報の生成と流通というプロセスの中で、もっとも大事な部分がどこであるかを見極めることが肝要だ。それは「考える」ことであり、「構成する」ことであり、「推敲する」ことである。紙の上でペンを走らすという手間が大事なのではなく、相手を思いやり、考えに考え抜くことであり、制限時間の最後まで、少しでも想いが伝わるように考えることである。つまり、手間を本来のもっとも大事なプロセスにかけることができるのが、デジタル手段であると考えられるし、そうでなければいけない。時間ぎりぎりまで粘って文章を考えていても、それをタイプして、送信するのは即座にできるのだから、そこに妥協しない。デジタル手段では、すべてを手抜きしてもわからない。だからこそ、本質部分への手間を忘れないようにしないといけない。

このように考えることはできないだろうか。

冒頭の講演の依頼という話で、何を我々が学ぶべきかというと、それは情報を受ける側がそれを心地良いと思わなければ、その情報の伝達手段は間違っていたということなのだ。単純に何が良くて何が悪いということはない。私のように、郵送されたもののほうが取り扱いに困るという人ならば、それは避けたほうが賢明だ。逆に、全文万年筆直筆こそが礼儀のある手段だと考える方にはそうしたほうが良い。相手に届いて、伝わって、情報は初めて意味を持つ。ならば、そのための手段をとるべきである。

ミラーリングという言葉がある。コンピューター用語としてのそれではない。人と人との対話におけるものだ。人が心地良いと感じるのは、自分と同じような接し方で少しだけへりくだった相手と対話しているときだと言う。私がこれを習ったのは、就職時*5の面接のコーチングを受けたときである。相手が、たとえば、机の上に足を放り出して、ハンバーガーを食べながら面接をしてくるような人*6だったならば、こちらもカジュアルにして、ただ、相手よりも少しだけへりくだったようにすると良い。逆に、背筋を伸ばし、非常に硬い感じで対応される方ならば、それに倣い、それよりも丁寧な言葉遣いを心がけると良い。ここで対応を間違えると、「硬いやつ」だとか「くだけすぎなやつ」という評価をされてしまう。

メールなどでも同じである。相手がどのようなフォーマットと伝達手段を快いと思うかを把握し、それに合わせるべきである。たとえば、ここまでやることはほとんどないかもしれないが、相手が移動中には携帯でメールを読むことが多いというのがわかっていたら、携帯で読むのにふさわしい分量とフォーマット*7を考える。文字化けなどはもっともしてはいけないことだ。WindowsとMac、一般的なスマートフォンなどで起きそうなことを把握しておき、それらを避けるようにすることなどは今日のデジタル時代のおもてなし術の1つではないだろうか。

デジタル手段であっても、いや、今日のように、環境が複雑ならば、手間をかけるところはもしかしたらアナログ手段よりも多くなってきているのかもしれない。

ちなみに、私が年賀状を書いていたころ、もちろんパーソナルコンピューターで作成し、印刷して、郵送していたのだが、ある年に面白い工夫をした。宛名面も挨拶を書く本文の面も両方とも完全に印刷したのだが、実は1つ1つ中身を変えていた。見ただけでは気づかないのだが、どうしたかというと、挨拶の中にQRコードを埋め込んで、携帯でそれを読み取ると、1人1人が違うメッセージを読み取れるようにしたのだ。。我ながら良いアイデアだと思ったのだが、受け取った人に聞いてみたら、誰もそれに気づいた人がいなかった。QRコードで読み取れる文章が自分宛にだけ作られたものであることに気づかなかったのではなく、QRコードで読み取ることさえしていなかった。それに気づいた私はしばらくして年賀状を止めた。

教訓:手間をかけたことを相手に気づかせないのが本当のおもてなしかもしれないが、手間をかけた結果がまったく気づかれないのは意味がない。

*1:[http://togetter.com/li/331323:title=「本当に大切な相手にまじめに何かを頼みたいのなら、必ず万年筆全文自筆の手紙を記念切手でお送り等するのが人間として当たり前」- Togetter]

*2:「[http://www.j-cast.com/kaisha/2012/06/12135339.html?p=all:title=「履歴書は手書きがいいの?」論争に決着をつけよう : JCAST会社ウォッチ]」というような理由もあるようだが。

*3:因幡晃の「わかって下さい」より

*4:もちろん、手描きスケッチのほうが綺麗で手間もかかっていることもあるので一概に言えない。特に、プロフェッショナルな描き手の場合。

*5:実際には転職時

*6:横柄という意味ではなく、それだけくだけた人だったならばということ

*7:たとえば、改行位置など