イノベーションは競合との競争で生まれるか?

前の会社に私が大変尊敬するVP (Vice President) がいた。残念ながら、すでに退職してしまっているが、10年ほど前に彼が来日した際には、すべての社内ミーティングや国内の重要顧客とのミーティングに参加させてもらった。

そこで見た彼の考え方や言動すべてが参考になったのだが、あるプレスとのインタビューで競合との関係について質問されたときの回答がこれまたイカしていた。

"Competitors make us great"

つまり、競合との競争が成長を促してくれると言ったのだ。市場に競争相手がいることが望ましく、その競合との競争によって、イノベーションは産まれ、顧客に価値のある技術を提供できる。その通りだと思った。

市場の状況や時期によっては、巨大化しすぎてしまった企業というものが存在することがある。市場を独占し、競合がほぼ見当たらないという状況だ。開発中の製品の競合がその製品自身の現バージョンや前バージョンであるというようなことも起こりうる。

このような場合、社内で仮想的に競合を生み出し、そこで競争を意識させることもある。社内で競争させるという意味ではない。実態以上に競合を高く評価し、社内での危機感を煽るのだ。そうでもしないと、組織が緩み、気づくと、まったく異なる価値観で勝負する競合に負けてしまっていることさえありうる。IT企業はパラノイアでないと成功し続けないと言われることが多い。仮想的に競合を作るくらいしないと生き続けていけないこともあるのだ。

このような状況を頻繁に目にしてきていたので、サムスンや最近成長著しいアジアなどの企業の他社に対しての激しいまでの競争意識というのは驚くにあたらない。

 「アップルをたたきつぶしてください。どんな手を使ってもいいから」。元サムスン社員だった日本人男性は、サムスン幹部が部下にこう指示するのをみて驚愕(きょうがく)した。

 事実、サムスンはライバル企業をつぶすために手段を選ばない。例えば、新興国の薄型テレビ市場で破格の低価格品を発売し、日本メーカーを後退させた。当然のことながら、売っても赤字という「逆ざや」に陥るが、潤沢な資金を持つサムスンなら可能だ。

「アップルたたきつぶせ」手段選ばぬサムスン 韓国に負けた日本企業 (1/4ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)

単なる価格競争であったとしても、コスト削減を実現するために、必要なイノベーションは確実に存在する。したがって、競合を研究し、それよりも賢く、素早く実行するということは否定されるものではない。

しかし、手段と目的を混同してしまってはいけない。

競合を意識しすぎるあまり近視眼的になってしまい、顧客不在で単に競争にだけに夢中になり、相手を叩き潰すことだけに躍起になってしまった場合には、新しい価値観を持つ技術を開発することはできない。

技術は常に顧客/ユーザーに価値を提供するものである。競合関係はあったほうが良いが、勝つためではなく、顧客/ユーザーのためには何が必要かということを忘れてしまっては、本末転倒になってしまう。顧客/ユーザーに支持された結果、競合との競争に勝つのであり、競合との競争に勝った結果、顧客/ユーザーに支持されるという方法をとるべきではないのだ。もし、そのようなことを続けたならば、早晩顧客/ユーザーは離れてしまう。

GoogleのCEO、ラリー・ペイジは先ごろ、テクノロジー企業の経営のあり方に警鐘を鳴らした。

「私は多くの会社の経営のやり方は深刻に間違っているのではないかと心配している。毎日会社に来てやることといえば、自分とほぼ同じようなことをしている同業のライバルの頭をどうやったら思い切りひっぱたけるかなどという仕事のどこが面白いのだろう? そんことをしているからほとんどの会社は次第に衰退していくことになるのだ」

Googleの精神―ラリー・ペイジ、「競争なんてくだらない。イノベーションこそすべて」と吼える

別に雇用者に迎合するわけではないが、競争相手のことをあまり強く意識し過ぎないほうが良い。

前の記事になるが、以前にもこのようなことを書いた。

競合製品を分析するならば、機能や実装に目をとらわれるのではなく、それが何を実現しようとしているかを探るべきだ。良く言われるように、手段と目的を分けて考え、手段にこだわるのではなく、目的を理解しなければいけない。それが利用者のどのような問題を解こうとしているのか、利用者に何を提供しようとしているのか、これが目的だ。その製品が持っている機能はたまたまその企業が手段として選んだに過ぎない。目的が理解出来たならば、それが自分たちにとっても優先度の高いものなのかを考える。同じ分類の製品であっても、どのような製品にしたいか、ターゲットは誰かによって、何を優先するかは異なる。自分たちにとっても優先度が高いとなったら、次にどのように実現するか、すなわち手段を考えることになる。

競合製品分析の際に心掛けること

以前に製品がすでにコモディティ化してしまい、寡占化している市場でビジネスを行なっている企業の方と話したことがある。

「もし、競合がある機能を追加した新製品を発表したらどうしますか?」
「すぐに分析して、次の商戦での新製品に搭載することを考えます」

実際そうなんだろう。仕方ないとも思う。だが、これではその市場自身のコモディティ化をより進めてしまうことになりはしないか。

その機能が提供された背景を考え、それがどのような新しい価値を提供しようとしているのか、どのような問題を解決しようとしているかを見たほうが良い。その目的に向かって、自社ならばどのように解決するかを考えるのがイノベーションを産むための競合分析だ。

そうしないと、その市場自身が萎んでしまい、その市場に存在していた技術もまったく異なる技術によって置き換えられてしまうことだろう。

競合との競争はあったほうが良い。だが、競争相手を見るのではなく、その先にある顧客/ユーザーを見ることが必要だ。

外資に勤めるということ

「兄ちゃんはアメリカが好きなんか?」

筋骨隆々の作業員の人にそう言われ、軟弱大学生だった僕は「いや、そういうわけじゃないんですけどね」とえへらえへら笑うだけだった。

大学4年の夏休み、僕は大学の研究室から派遣され、九州で地熱探査の調査にあたっていた。勉強の一環でありながら、バイト代も出るという美味しい体験。

熊本空港から入り、阿蘇山を越えた辺りの九重地域に調査隊はベース基地を設けていた。この調査はMT法と呼ばれる地熱探査の実用化を調べるもので、ベースキャンプに残る一隊とそこから50km、100kmと直線距離で離れた地域まで調査車で出向き、比抵抗を計測する隊とに別れて行動していた*1

利用する光ケーブルはそこそこ重く、それを運ぶための作業員の方は地元で雇われた方々だった*2。冒頭の質問はその作業員からのものだ。


九州に発つ前、僕はようやく内定をもらっていた。

バブル期のため、よほど贅沢を言わなければ就職先には困らなかったにもかかわらず、内定をなかなか取れずにいた。焦り始めたころに受けていた某石油開発会社と某テレビ局、そして外資系コンピューターメーカーの3社のうち、外資系コンピューターメーカーが内定を出してくれたのだ。それが僕の最初の会社である日本DECだ。ボストンに本社を置くアメリカ企業だ。

そのことを九州で作業の合間に話したところ、作業員の一人から「兄ちゃんはアメリカが好きなんか?」と聞かれたのだ。

モラトリアム期間を満喫しまくっていた大学4年の僕は、日本企業とかアメリカ企業とかは意識していなかったので、なんと回答して良いか言葉に詰まった。


それ以来、日本人でありながら、米国(ここからは米国と記する)資本の会社に勤めることについてたびたび考える。

米国資本ということは、米国経済の片棒を担いでいるということなのか。
日本と同盟関係にあると言っても、当たり前だが別の国だ。

僕が社会人になったころにはだいぶ収まりつつあったが、日米経済摩擦もまだ二国間には横たわっていた。また、コンピューター業界には、IBM産業スパイ事件の影響などもあり、日本対米国という構図もあった。

社会人として働き始めてから、いろいろなことを経験した。

外資系ベンダーだからということで言われもない差別を受けたこともあった。
多くの誤解もあった。都市伝説的というか、なんというか。

良く言われること。

外資系だから給料が良いでしょう。
外資系だから実力主義なのでしょう。
外資系だから年功序列はないのでしょう。
外資系だから…

正しいと言えば正しいし、正しくないと言えば正しくない。外資系と言っても、その業種によって異なるし、会社によってさらにぜんぜん違う。

だが、外資系に勤める人の多くで共通していることがある。それは常に日本を意識することだ。

以前、日経ビジネスに「外資系に勤めるとなぜ“右傾化”するのか」という記事が掲載されたことがあり、激しく首肯した。この記事の中では、外資系企業に勤務した人間が持つ3つの愛国心のあり方が紹介されている。

いわゆる「外資系IT企業」に勤めていた方が愛国心を発露する時の姿勢には大きく3通りあるように思う。1つは「このままでは日本はダメになる。もっとしっかりしてくれ」と前向きに主張することである。

外資系IT企業で働いた人が愛国心を表現するもう1つのあり方は、「自分は欧米と日本の長所短所を知っている。両国の間に入り、欧米と日本を結びつける仕事をして、日本の役に立ちたい」というものである。

3つ目の愛国心の発露は後ろ向きなもので、欧米嫌いと呼ぶべきかもしれない。欧米本社の幹部と長年やり合っているうちに疲れてしまい、「白人は嫌いだ」などとつぶやくようになる。

僕は幸運にも会社と組織と上司にも恵まれ、3つ目のような感情を抱くような経験をしたことはない。主に、抱くのは最初の2つの感情だ。

外資系には日本撤退というのが常に控えている。会社ごと撤退というのはそうそうあるものではないが、ある事業の撤退は当たり前にありうる。さらに言うと、日本の顧客には見えないかもしれないが、社内でのプロジェクトのキャンセルやオーナーシップの移管(日本からほか拠点へ)は頻繁にある。本社とのレビューの結果などで、そう判断されるのだ。こう書くと、一方的に支配されているように感じるかもしれないが、それは会社による。トップダウン型でなかったとしても、会社内の基準でプロジェクトが淘汰され、同じ基準が日本にも適用される。

日本よりも開発コストの低い拠点で担当することになったプロジェクトや日本市場に魅力が無くなったために閉鎖することになった研究施設などの例はそれこそ枚挙に暇がない。

このような外資系で働き続けるためには、常に日本の価値を高めていないといけないのだ。

日本市場が営業先として魅力的でなければ、日本に直販の部隊を置く必要はない。日本に労働市場としての魅力が無ければ、日本で採用を進めることはできず、結果、日本オフィスの拡大は挑めない。アジア諸国と労働コストで比較される場合には、労働コストにおける不利を覆すほどの理由を日本人を日本で採用するために持たなければいけない。日本市場の特殊性を指摘されたら、それが日本市場だけでしか通用しないものなのか、他国に将来的に展開できるものかを考え、後者である場合にはそれを証明しなければいけない。

日本企業が日本で事業を続けるのとはまた違った厳しさがあり、それは常に、大げさに言えば、日本を背負ったものとなる。


「黒船でも良いと思うんですよ」

外資系に勤めていることについて話すとき、時折このように言うことがある。黒船という言葉は植民地化を目的とした幕末の黒船到来を指すことが多いため、必ずしも適切ではない。だが、言いたいのは、日本を少し外から見て感じることを正直に伝えることは、日本企業の人にとっても役立つのではないかということだ。

「そういえば、日本は外圧じゃないと動かないこと多いですよね」と知人は言った。そこまでのことは思わないが、外部からのある種不快な意見が日本を揺さぶり、そして気づきを与える。傲慢と言われかねないことを覚悟して言うと、そのように考えることも多い。

日本の常識は世界の非常識。世界の常識は日本では非常識。日本の数年後をやっと追いかける世界。世界とは異なる路線を歩み続ける日本。いろいろと言われる。すべて正しいし、すべて間違っている。勝ったものがすべての世界なので、結果的に日本が世界で通用し続ければ良い。

外資系にいると、日本企業や日本製品の海外での競争力というのが嫌でも見えてくる。日本企業の競争力低下はそのまま外資系企業の日本法人の社内における力関係にも影響することがある。特に、パートナー企業とのエコシステムを構築するような企業の場合はそうだ。その意味で、日本にいる外資系企業で日本企業の成功を願わない企業などはごくわずかだ*3


日本で働く仲の良い米国人が僕に言った。

「日本人には言えないような失礼なことを言っているかもしれない。でも、日本人にはしがらみがあって言えないことでも、これが正しいと思うんだ。みんなそれがわかっていても言えないんだ。だから僕が代わりに言っている。もし、問題になったら同僚にはこう言ってもらっている。『礼儀を知らない失礼なアメリカ人が変なことを言っていて、申し訳ない』と。それが原因で僕が嫌われても構わない」

外資系で働く僕も同じような気持を持っている。

愛の形は人それぞれ。日本が好きでも日本企業に勤めない。

「兄ちゃんはアメリカが好きなんか?」
「いや、僕は日本が好きだ。だから外資系企業に勤めている」

そんな日本人もいる。

外資系3社目ですでに6年が過ぎた年末。

参考ブログ記事:

外資系の流儀 (新潮新書)

外資系の流儀 (新潮新書)

*1:余談だが、公道に勝手に駐停車して、ケーブルを辺りに引き回していた僕らは地元の警察から尋問を受けた。当時で1億はしたという調査車の中はミニコンピューターや電子機器が所狭しと搭載されている。どうやら、当時熊本で問題化しつつあった某宗教団体と間違えられていたらしい。

*2:また、脱線するが、大雨の夜にケーブルからのデータがまったく来なくなり、ヘルメットのヘッドライトを頼りに見に行ってみたら、うさぎが噛みきっていたこととかあった。

*3:実際には残念なことにそうとばかりは言えない。先の日経ビジネスの記事の3つ目の例にも紹介されている。

人材流動性と年齢差別 〜 米国シリコンバレーの事情

ロイターに面白い記事があった。

Special Report: Silicon Valley's dirty secret - age bias | Reuters

シリコンバレーにおける職探しで年齢差別がはびこっているという記事だ。

記事は、現在60歳のRandy AdamsがCEO職をシリコンバレーで探していた時のエピソードから始まる。CEO職を探すという時点で、すでに日本の状況とはだいぶ異なっているが、それはさておき、彼はいくつものポジションを断られた。採用されたのは彼よりもずっと若いが、経験も少ない若い人間たちだ。

白髪混じりの髪を剃り、ローファーをコンバースに履き替えたことで彼は職を得たが、その後もボタンダウンシャツをTシャツにしたり、常に最新のガジェットを所有するようにするなど、イメチェンを余儀なくされている。

記事では、シリコンバレーでは若い人、具体的には40歳以下、が好まれる傾向があり、このような若い人信奉は年齢差別としか見られないことも多いという。

記事の中ではシリコンバレーで働くリクルーターが、あるソフトウェア企業から、カリフォルニア州法および連邦法で禁じられているにもかかわらず、「26歳あたりの年齢の人」と具体的に年齢を指定して人材を探すのを依頼されたことを紹介する。

また、技術マーケティングと戦略の専門家である61歳になるJeff Spirerは、ある会社の採用担当者との電話インタビューの後、オフィスにてCEOとのインタビューに臨んだが、その会社の20代のCEOは彼の姿をひと目見るなり、急用があったと言って席を立ち、二度と戻ってこなかったという。インタビューが再度組まれることもなく、そのポジションには若い人が採用されたという。

若い人が採用されているのには、年齢という理由だけではないことがあるのも事実だ。子供を持つような世代の人は時間的制約が厳しく、長時間勤務や残業もしにくいことが多い*1。若い人のほうが最新のプログラミング言語などに長けていることも多いだろう。このようなこともあり、年齢差別があるということを証明することは難しい。

シリコンバレーにおいて若い人が信奉されるのは、FacebookのZuckerbergを始めとして、そのような成功者が登場した際に、年齢が大きく注目されることが多いためだとも言える。実際には60代や70代で成功する経営者もいるのだが、それらがニュース価値を持つことは無い。

だが、それでもシリコンバレーの年齢差別と見られかねないカルチャーを具体的に示す事例には事欠かない。

Sequoia CapitalのMike Moritzは若い層に対して「彼らは素晴らしい情熱を持っている。彼らは家族や子供などのような邪魔する存在を持っていない」と言っている*2

Khosla VenturesのVinod Khoslaは「新しいアイデアに対しては45歳以上の人間は基本的に死んでいる存在だ」と言っている。

記事は見た目を若く保つシリコンバレーの中年男女を紹介して終わる。着るものを若くし、中には美容整形をするものもいる。そのようにして自分の希望するポジションを得る。


さて、日本の状況を踏まえて、この記事を読むと、60代でもまだ自分の専門性を活かした形でスタートアップなどの経営に参画できるというのは羨ましく思える。記事では特に目立つ例を取り上げているのだと思うが、それでもこれが記事になるということ自体が、40代や50代で能力があれば、自分の専門を活かした形でのキャリアアップが可能ということであろう。

シリコンバレーや技術企業以外では、40歳以上で年齢差別に会うことは想像できないだろうという記述があるのだが、日本ではどんな業種であっても、40歳以上での転職はかなり苦労する。最近でこそ変わってきているが、日本ではスペシャリストとしてキャリアを積み上げることが一般的ではなく、ある年齢以上になるとゼネラリストとしてのキャリアしかなかったため、企業を変わった途端に自分が身に付けてきたものがまったく通用しなくなる。

若さを保つという極めてアメリカ的で皮肉な事例を紹介して記事は終わったが、日本では敢えてこの「若さを保つ」というのを40代以上の人間はやってみてはどうだろうか。美容整形などはしなくても良い。だが、最新の動向を把握し、自ら試し、自ら作り上げる。若い人と話す機会がなければ、このようなことも出来ないだろう。

以前、Google+に書いた文章をここに再録しておく。

自分よりも下の世代と話すことが多いし、これからもそうだと思う。

上の世代にも同世代にも尊敬する方々はたくさんいる。同年代というのは生まれ育った時期が一緒であり、コンテキストを共有していることによる安心感はあるし、そこでしか生まれないものもある。

だが、ここしばらくは同世代よりも下の世代と関わることのほうが多い。それは自分のいる環境(会社や業界)に拠るところも多いだろうが、それだけでなく、自分がそのほうが心地良さを感じているからだと思う。

この先、何年生きられるかとか考えると、下の世代とのつながりを持っているほうが、先立っていく友人や知人を見送った後に残った場合でも寂しくなないだろう。というような後ろ向きの考えだけでなく、やはり下の世代のほうが活気があるし、発想が豊かだ。「今の若者は」と、私にもし言わせたとしたら、「大変素晴らしい」と結ぶだろう。

50歳になっても、60歳になっても、下の世代とつながっていたいよね、と同世代の知人と話したが、そのためには下の世代から会う価値のある人間だと思われていないといけない。いつまでも古い価値観にしがみつき、動脈硬化した発想しかできない人間は老人クラブで余生を楽しむのが良い。私は走り続ける。

ということで、今週末は長野マラソン♪

https://plus.google.com/106357774291225510689/posts/emR9CtoYp4C

このロイターの記事の中でも、Benchmark CapitalのPeter Fentonが同じようなことを言っている。Benchmark Capitalは自社のアクティブなパートナーたち*3を出来るだけ40歳以下にしているが、そのパートナーに対し、彼は「我々には若さを追求し、若さを保つための方法がある。心を若く保つことだ」と伝えている。

見た目から入っても良いというよりも、見た目から入るほうが大変かもしれないのだが、若い人の中に混じって仕事や勉強ができるようにしてみよう。それが自分がビジネスの世界で生き残ることにつながり、さらには日本のビジネスを生き返らせることにつながる。

ところで、記事の中で一番気に入った部分がある。

イメチェンに成功し、希望のポジションを得た男からのアドバイスだ。Blackberryは止めて、Androidにし、Dellのラップトップではなく、Apple製品を使うようにという比較的うなずけるアドバイスの後に、彼はこう言う。

「一番最悪なのは金のロレックスだね」

+1 ;-)

働くひとのためのキャリア・デザイン (PHP新書)

働くひとのためのキャリア・デザイン (PHP新書)

*1:記事には書いていないが、米国における長時間労働や残業というのは日本のそれに比べると大したことはないことが多い

*2:記事では、「そのような意味ではない」という彼のコメントが載っているが具体的な説明は得られなかったらしい。

*3:VCにおけるパートナー

競合製品分析の際に心掛けること

競合製品分析を行うべきかどうかは慎重に判断する必要がある。分析するとどうしてもある特定の機能の有無ばかりに目が行ってしまいがちになる。持っていない機能の実装を行った結果、その製品の(劣化)コピーにしかならないことも多い。

知的所有権の問題に神経質な企業などでは競合製品の分析を禁じていたり、分析を行える社員を限定していたりすることもある。

この間も知り合いと話していたのだが、競合製品を分析するならば、機能や実装に目をとらわれるのではなく、それが何を実現しようとしているかを探るべきだ。良く言われるように、手段と目的を分けて考え、手段にこだわるのではなく、目的を理解しなければいけない。それが利用者のどのような問題を解こうとしているのか、利用者に何を提供しようとしているのか、これが目的だ。その製品が持っている機能はたまたまその企業が手段として選んだに過ぎない。目的が理解出来たならば、それが自分たちにとっても優先度の高いものなのかを考える。同じ分類の製品であっても、どのような製品にしたいか、ターゲットは誰かによって、何を優先するかは異なる。自分たちにとっても優先度が高いとなったら、次にどのように実現するか、すなわち手段を考えることになる。

このようなプロセスを経ずして、手段である機能/実装にばかりとらわれると、単なるモノマネ製品となってしまう。

実例をあげよう。

最近の薄型テレビにはセンサーがついており、人が前にいないと電源が切れるようになっている。また、同じ技術で画質や音質を人がいる方向に最適化することもある。これが解こうとしているのは、自動的にエコと最適な画質/音質を実現することである。自社の製品として考えるべきなのは、これが自社製品にとっても優先すべきものなのか、優先すべきものであった場合、どのようにして実現すべきなのかである。この例の場合は、センサー以外の実現方法はなかなか考えつかないかもしれないが、それでも単に手段である機能を装備することに走るべきではない。

もう1つ例を考えてみよう。

ブラウザにマウスジェスチャー機能があったとする。これを要求するユーザーが多かったとしても、その実装をすぐに考える前にやることがある。マウスジェスチャーにより何を解こうとしているか、何を実現しようとしているかを考えることだ。マウスジェスチャーを使って行えることはマウスによるページ操作やタブ操作などだが、多くの場合、実は標準状態でもマウスだけで実現は出来る。マウスジェスチャーマウスポインターの移動距離が短くて済むことやカスタマイズが可能なことなどが特徴としてあるのだろう。ここから考えるべきなのは、マウスポインターの移動距離が少なくてカスタマイズ可能にすることではなくて、もっとステップバックして考えることだ。出来るだけ行っている操作を妨げることなく、ページ操作やタブ操作などを行えること、そしてそれが自分好みになること*1。いろいろな考えがあるだろうが、このように目的を分析することも出来る。もしこれが目的として認識出来たならば、これが重要かを考え、手段としては何があるかを考える。もしかしたら、音声でナビゲーションを行うということが良いと考えるかもしれないし、脳波を読み取るという考えに行き着くのかもしれない。

以上が私が競合製品分析をする場合に心掛けていることだ。もっとも個人的にはあまり競合製品分析はしない。それよりもユーザーが何を求めているかを把握することに気をつける。

1つだけ付け加えることがある。もし競合製品の特定の機能がすでに広く認識され、さらに他社にも採用されている場合だ。この場合、別の手段でユーザーの問題を解こうとした場合、ユーザーに新たに学習するというコストを払ってもらう必要がある。個人的にはそれでも常に新たな手段を考えるべきと思うが、この学習コストについては気をつける必要がある。

*1:あくまでも例

GDP世界3位の弊害

NECとレノボがパソコン事業で提携。

前職のときから思っていたのだが、日本にはパソコンベンダーが多すぎる。国内年間販売総数1,500万台の市場にいったい何社あるのかと。NEC、富士通、東芝、ソニー、パナソニック*1。現在では5社だけだが以前はこれにシャープと日立も加わっていた*2。日立は2007年にシャープは2009年に開発を停止している。

景気が右肩上がりであったときにはそれでも良かった。

市場の成長が見込まれるときにはそれでも良かった。

だが、今は違う。国内景気はフラットだし、少子高齢化に伴いむしろ国内市場は縮小することが考えられる。世界的に見てもパソコンはもはやコモディティであり価格以外に差別化の難しい製品となっている。

もちろん、サービスを提供するに際してユーザーが利用するメインのデバイスとなるパソコンを自社ブランドで押さえておくことは重要だし、自社のパーツの利用先として戦略的な位置づけであることもあるだろう。だが、それでもこんなに多くのベンダーは必要ない。

同じことは携帯電話にも言える。ガラパゴスと言われ世界標準と異なる端末で国内で勝負していたベンダーの国際競争力は無く、いまや日本企業が束になってかかってもサムソンに敵わない。だが、携帯電話はいち早くその状況に気づき、合弁や提携が進んでいる。成果はまだあまり見えないが、携帯事業に関しては各社とも戦略の転換を図っていた。やっとパソコンにもその流れが来たかという感じだ。

シャープが2009年に生産を停止していたにも関わらず昨年になってパソコンからの撤退を発表した際にはいろいろな憶測が流れた。提携先を探していたのではないかとも言われている。ちょうどほぼ同時期にGALAPAGOSの発表があったので、事業からの撤退というだけではなく、新しい事業に集中するという形で無事ソフトランディング出来たのではないかと見る人も多い。

GDPは中国に抜かれたとは言え、まだ世界3位だ。成長率が鈍化したが、それでも巨大市場であることには変りない。これが各社の思い切った戦略の変更を躊躇させる原因になっているのだろうか。隣の韓国を見ると、成長し続けるには、事業を継続するには、外に打って出るしかない。

NECの2009年のパソコンの売上高規模は2,000億円規模であると言う。この規模の事業を整理*3するのは大変だと思うが、真綿で首を絞められるように死んでいくよりはましだろう。NECのパソコンに対してあまり思い入れがない立場から言うと、どうせなら完全にレノボのパソコンに一本化すれば良かったのにとさえ思う。と書きながら、NECのサイトを見たら、ValueStarってまだあるのね。これとかはこれはNEC側を引き継いだほうが良さそうか。いずれにしろ遅かれ早かれ製品ラインも整理することになるのだろう。

個人的には愛してやまないThinkPadがそのまま存続してくれて、NECのサービス網でメンテンナンスなどを提供してくれることになれば万々歳だ。

*1:ほかにももちろんあるが、大手としてはこのくらいだろう。

*2:もっと昔の話をすれば、三菱や沖電気も参入していた。

*3:整理と言ってはいけないのか