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スキームを変える - メディア、ジャーナリズム、文化

ビジネス

外資系に長くいるためかもしれないが私は何をするにしてもゴールを意識することが多い。特に今の会社に来てからその傾向が強くなった。今という時代がそれを要求しているのだとも思うし、私のいる業界が特に過去にないものを生み出しているからかもしれない。

長く続いていること。今までは成功してきたやり方。疑問も持たずそれらを続ける。それは楽かもしれないが、状況が変化する中において、本当に正しいことなのだろうか。今まで続いていてきたからというだけの理由でそれを続けることが本当に是なのかは考えてみたほうが良い。ゼロベース思考という言葉がある。今までの前提をとりあえず無視して、全くなかったこととして、考えみようという思考法だ。これこそが今必要なのではないか。

ジャーナリズムとメディアを考える

以前、メディアの人と話をすることがすることが多かった。何かと批判の多いメディアであるが、経験豊かな記者さんや編集者さんなど本当に尊敬出来る人も多く、たくさんのことを学ばせてもらった。だが、何人かの方が話すことで私には理解出来ないことがあった。

それはジャーナリズムとメディアビジネスを混乱していること。「報道機関として…」と言うとき、「権力の番犬として…」と話すとき、それはジャーナリズムを語っているときだ。ジャーナリズムとしての使命を全うするメディアを考えるならば、それは報道の本質を追求することであり、ビジネスは別だ。時として両立出来ないかもしれないことを知っているはずだし、意識しなければいけない。極端な話、報道機関としての組織を維持するためのコストは営利企業としての利潤をあげることとはまったく別の方法で確保しても構わないのだ*1。だが、そのジャーナリズムを語る同じ人が、ネットではすべての記事が無料で流通してしまうのでこれでは報道機関としての役割を果たせないと語る。

ちょっと待ってくれ。多くの人に自分の記事を読んで欲しいのではないのか。権力の番犬としてすべての国民に知らせたいことがあるのではないのか。そもそものジャーナリストとしてのゴールを考えるならば、ネットというこれだけ普及した媒体を使わないという選択肢は無いだろう。「ネット時代のメディア戦略」というポストで以前書いたように、ネットはコンテナでありコンベヤであって、そのコンテンツを運ぶための数ある媒体の1つに過ぎないのだから。

こういうことを書くと、私の今の勤め先と関連付けて、「また、こいつはポジショントークしてやがる」とか言われるかもしれない。すべてのコンテンツを無料で提供し、ネット広告でビジネスすれば良いと結論づけていると。言うまでもないが、そんなことを言うつもりは毛頭ない。私だって、じゃあどのようなスキームにすれば良いのかの回答を持っているわけではない。ネット広告かもしれないし、有料コンテンツかもしれないし、それ以外のスキームがあるのかもしれない。おそらくメディアの人も考えて、今のスキームを継続しているのだろう。それはわかる。だが、それでも本来のゴールを考えているか。そう問いたくなることがある。

ソフトウェアビジネスでは

幸いにして、旧態依然としたスキームというものを持つ前に商品としての価値や流通形態がダイナミックに変化していったのがソフトウェアビジネスだ。

その昔、ソフトウェアはハードウェアにバンドルされるものだった。メインフレームのビジネスにおいては、基本ソフトウェアはもとより、顧客向けのアプリケーションソフトウェアも常駐のSE込みでハードウェアにバンドルされていた。実際にはそれぞれきちんと価格体系があったのだが、ハードウェアの価格が高価だったため、ほかのコストはほとんどそのなかに埋もれてしまうようなものであった。

また、パーソナルコンピュータの黎明期においてもソフトウェアは無料であった。MS-DOSはアプリケーションソフトウェアに添付されていた。MultiplanというExcelのMS-DOS版のようなものを購入すると、そこにMS-DOSが付いてきた。パーソナルコンピュータでは、ソフトウェアの価値をきちんと認めさせようとマイクロソフトを初めとするベンダーが努力し、ソフトウェアは購入するものという世界を業界として創りだしたのだ。<更新:11/30 10:17 コメント参照のこと。この言い方は必ずしも正しくない。>

だが、ネットの世界でまたそれが変わりつつある。もちろん、パッケージソフトウェアは今も存在しているが、別の形態として、ネットで無料でサービスを提供し、それ以外(多くは広告)で利益は確保する。そのようなスキームも現在では選択肢の1つとなっている。

いずれのスキームにおいても、ソフトウェアを提供する側のゴールは情報技術を用いて人々の生活を良くすること。それは社会基盤システムかもしれないし、エンターテイメントかもしれないし、家庭における雑務の軽減であるかもしれない。情報技術やデジタル技術を用いて社会をより良くする、楽しくするというのがソフトウェアを開発するモチベーションだ。もっと開発者個人の視点で言うならば、誰かに喜んで欲しいからだ。誰かに自分の作ったものを使って欲しいからだ。これがそもそものゴールだ。

文化は不変ではない

「活字文化を守るため」ということもよく聞く。私が言うことでもないのだが、文化は生き物だ。使われなくなり、愛されなくなったら、それは衰退していく。衰退していくのもまた文化だ。守りたいと思うのは自由だけれど、人の気持ちは変えられない。

活字文化云々を否定する気はないが、人類の歴史から考えて、その文化がどれだけ続いたものか考えるのも重要だ。今までの歴史とこれから作られる歴史、大きな流れの中で何が残すべきものであるかは考えたほうが良い。

この議論でもそもそものゴールを考えてみるのが有効ではないかと思う。活字を使って伝えたかったものはなんなのか。作家さんもいったい自分は何のために、その作品を書いているのか考えてみると良い。活字として紙に印刷されたものに強い思い入れがあるのならば、活字にこだわるのが良い。そのような作品もおそらく多くあるだろう。私も自他共に認める活字中毒者だし、レイアウトやカリグラフィーに対しての愛もある。デジタルでの表現に我慢出来ないこともある。だからこそ、本当に必要なゴールを明確にして、こだわるならこだわる、もし活字と紙がただの媒体に過ぎないのだったら、ほかの媒体を広く使うことを考えると良い。下手に感情論で文化を語りだすとろくなことが無い。

グーテンベルクによる活版印刷の発明は情報の伝達速度を飛躍的に高めたが、それでも活字による文字には当時批判もあったと聞く。おそらく批判していた人たちは「文化」が壊されることを危惧していたのだろう。実際、恐れていたように、そのような皮に筆で書いていたような文化はほとんど無くなってしまった。だが、どちらが良かったのかは明確だろう。情報の伝播がゴールであるというコンテキストならば。

守る責任と壊さないという責任放棄

スキームを守ろうという人たちに共通して見られるのが、「先輩方から受け継いだものを守る責任がある」という発言だ。文化を守る、歴史を守るという発言ともオーバーラップする。

だが、「変わる」ことが当たり前であるという前提にたって考えると、このような発言は「時代に合わせて変化する」という責任を放棄しているとしか見れない。

もちろんバランスは大事である。だが、創業以来続けてきたことなんて実は大したことがない。せいぜい100年や200年のことだろう*2。そういう企業だって中身をよくみると、大きく業態を変えているところも多い。

続けてきたことは立派なことであり、これからも続けていくべきことも多いだろうが、だが「続けてきた」という事実を免罪符のように扱って思考停止してしまうことになっていないかは考えたほうが良い。

特に、今ビジネスの現場で(とりあえず)続けるという判断をしている人は、「勝ち逃げ」を狙っている40代、50代世代が多い。彼らは今を静かに暮らしたい人たちなのだ。壊さないのは誰でもない自分のためだったりするのだから、騙されちゃいけない。

ほかの業界/歴史に学ぶ

ソフトウェアの世界がすべてではないが、たとえばソフトウエアの世界でのオープンソースというあり方などはほか業界の人も知ってみて良い世界だと思う。

ある企業で働くことにより生活の糧はそこで得ながら、オープンソースでソフトウェアを開発する。そのようなことが出来る人が多くはないことを知っているが、たとえば、これは中世の時代に貴族からサポートを得ていた芸術家のようなものだと考えることは出来ないだろうか。いや、全然違うかもしれないが、ゴール何かを再度考え、そのためのスキームをゼロベースで考えるためには、ほかの業界や歴史などを見直してみるのも悪いことではない。

メディアとジャーナリズムを中心に書いたが、ほかの自分の周りのことでも、なんか議論が破綻していると思ったら、改めてそもそもなんのためにやっているのか考えてみると良い。

<追記 11/30 19:45>
Visionなき世界で少し書いたが、Visionが必要なのはビジネスだけでなく、国家運営においても同じである。Visionを描き、それを実現するためのスキーム変更というMissionを怠っているのは、すでに現役世代を引退しかけている自分の保身に走っている政治家だったりすることは無いだろうか。Vision、Mission、そしてTactics。変化を求めることを恐れていては何も実現出来ない。

*1:そのほうが望ましいかもしれない。

*2:もちろん、江戸時代からとかいう企業もあるだろうが、大多数はせいぜい昭和に入ってからとかの話だ。