安全と安心
以前、TwitterやTumblrでも書いたのだけれど、安全と安心は違う。
安全は科学であり、データに基づき判断されるものであるけれど、安心は心の問題だ。安全であろうとなかろうと、人がそれをどのように判断するかの話である。
原発事故においては、安全かどうかさえ危うい。データの信頼性が揺らいでおり、判断基準に対するコンセンサスが得られていない。しかし、たとえ安全だと仮定しても、それで安心するかどうかは人それぞれだ。なぜ安心出来いのだと言って責められても、安心出来ないものは仕方ない。不安な気持ちに常に万人が納得する理由が付けられるわけではない。
逆に、安全で無くても安心を感じることはある。宗教や非科学的/エセ科学な商品に頼ってしまうのは人が科学ではなく心の安定を求めることの表れだろう。言うまでもないが、人々が安心しているからと言って、それが安全であるとは限らない。生肉などは多くの人は安心して食べていたろう。だが、それは必ずしも安全ではなかったことが証明された。
さて、健康であるためには、安全と安心、どちらが大事だろう。
もちろん、健康であるためには医学的なアドバイスが必要だ。医学は科学だ。安全なことは欠かせない。だが、安全だと言われても不安を感じることがあるのは上に書いたように事実であり、不条理であるけれども理解しなければいけない。健康を気にして、コレステロール値のわずかな増減で一喜一憂しているような人や普段から*1水はミネラルウォーターしか飲まないというような人にとっては、「健康に直ちに影響はない」レベルの放射線であっても、とても安心出来るレベルではない。
安心出来ないと人はストレスを感じ、メンタル面から不健康になる。チェルノブイリ事故後に「放射能恐怖症」という形で病気を発症する人が多いとも言われている*2。つまり、安心出来ない環境はそれだけで安全ではないのだ。
安全でないと安心出来ないし、たとえ安全であったとしても安心出来ないと、それは安全ではない。
安全と安心はどちらも必要であり、どちらかがどちらかのトリガーになるものではない。これを覚えておく必要がある。安全だから安心しろというのは矛盾したメッセージになる。
ところで、ソニーのプレイステーションネットワーク侵入問題。安全を確認するとともに、サービスは再開することになるのだろうが、安心して使ってもらえるようになるまでの道は遠いだろう。
[5/4 7:45更新]
菅野村長は「住民にとって必要なのは安心と安全。国は安全ばかりを強調するが、住民がどうすれば安心して生活できるのか考えていない」と指摘。「放射線量をきちんと管理し、村に残った方が幸せという場合もある」と不満を述べた。
飯舘村長のコメントだが、まさに安全と安心の両方が必要なことを訴えている。幸福であることには安心が必要条件。ただ、これは村長 vs. 住民の対立構造もあるらしい*3。
[2014年12月更新]
第2弾も書いていた ↓
安全と安心 その2 - Nothing ventured, nothing gained.