キュレーションは自らの手で

1970年代のジュブナイルではないかと思うのだが、次のような短編小説があった。

成績も良くなく、運動も得意ではなかった高校生がいた。もちろん彼女もいない。そんな主人公の前にある少年が突如現れる。この少年は主人公とは対照的に頭も良く、運動神経も抜群だ。主人公の親友となったこの少年は彼に勉強や運動を教える。ほどなく、彼の成績は急上昇。スポーツも(確か柔道のコツか何かを教えたのだと記憶しているが)得意となり、そのおかげもあって、可愛い彼女も出来る。急に自らの人生が輝けるものとなった時に、少年から種明かしがされる。少年は未来の世界から来た人間で、人がどのように人格を変化させるかの実験のために、主人公が選ばれたということを伝える。成績や運動神経は良くなかったが謙虚で親切だった君は、こんなにも傲慢で鼻持ちならない人間になった。これで僕は賭けに勝ったよ*1。それを知らされて愕然とする主人公を残して未来の世界に帰っていく少年。

話題となっていたFacebookが行った心理実験のことを聞いた際に、他人の恣意的な行動により性格が変えられてしまう話として、この話を思い出した。

Facebookが実施したNews Feedの感情伝達実験

この件は結局Facebookが謝罪をしたということからもわかるように、ユーザー体験を最善にするために実験を多用するWebとしても行き過ぎだったということで結論が出ているようであるが、ここまで恣意的かどうかは別として、このようなことは今までもあったし、今後も無くならない。

ソーシャルメディアでも広告でも中立な形ですべての情報を提示することはありえない。ユーザーの利益になるように、または提供側の利益になるように、なんらかの最適化が行われる。情報過多の状況の中、特定の情報のみを提示するようにしたり、優先して提示することは常に行われる。これはいわゆるキュレーションが情報提供のプラットフォームによって行われている状況である。

ネット企業のモラルが問われているとも言えるかもしれないが、何が中立かの判断は難しく、本当の中立などは誰も保証出来ない。

ただ、実はこの状況はネットに限った話ではない。

従来メディアである新聞やテレビなども、そのメディアごとに報道の方針がある。読者は自分の思想信条に合っているものを購読し、視聴する*2。つまり、どのメディアから情報を得るべきかはユーザーが選択出来る。これは情報の編集権がメディア側にある形でのユーザーの取りうる1つの選択だが、さらには、情報ソースを複数持ち、それらの中から情報のキュレーションを行うことで、自分の希望する観点からの情報を得ることや中立性を高めることも可能だ。報道機関が世論誘導を行ったことにより問題になったこともあるが、その場合にも複数の情報を得てキュレーション出来るようにしておけば、その被害を最小限に留めることが出来る。

ネットでのキュレーションはここ最近ブームで、スマートフォンでのアプリケーションでも人気のものがいくつかある。テレビコマーシャルでも目にするようになった。Facebookも一種のキュレーションを行うソーシャルメディアと考えられるが、このキュレーションをこのキュレーションプラットフォームに頼っていては、今回のFacebookのようなプラットフォーム側のアルゴリズム変更により得られる情報が左右されてしまう。

スケールする形で情報を得るためには仕方ないとも言えるが、1つのプラットフォームに必要以上に依存しないこととキュレーションの制御を出来るだけ自分で行うことにより、プラットフォーム側への依存を軽減することが出来る。

キュレーションを自分で行う簡単な方法としては、Facebookでリストを作成し、ニュースフィードだけでなく、そのリストを見るようにすることがあげられる。

Facebookのリストは友達のページから行うことが出来、左側に表示されるお気に入りに登録してアクセスしやすくすることも可能だ。Twitterでも同じくリストを使うことがプラットフォームのアルゴリズムに左右されないキュレーションとして有効だ。

すでにやっている人も多いと思うが、まだの人はお試しあれ。

それはそうと、冒頭に紹介した短編小説。眉村卓氏の作ではないかと思っているのであるが、まだどの作品だったかを思い出せていない。どなたかご存知の方はお知らせいただきたい。 

【更新 on 2014/7/6 19時39分】作品は眉村卓氏の「押しかけ教師」であることが判明した。「閉ざされた時間割」に収録。

 

閉ざされた時間割 (ハルキ文庫)

閉ざされた時間割 (ハルキ文庫)

 

 

*1:正確には違うかもしれない。

*2:すでにこの行動様式は過去のものとなってしまったかもしれない。