コトバの重さ
以前、ペンネームで某雑誌にコラムを連載させていただいていたことがある。紙媒体の月刊誌に、最初は1ページ、後には2ページほど担当させていただいた。紙媒体なので、文字数制限は絶対だ。足りなかった場合には図表などを入れて、不足分を補うことはできるが、分量オーバーは許されない。幸いにして、編集者の方が優秀だったので、多少オーバーするくらいで提出しても、冗長な部分をカットしていただくなどして、いつもきれいに収まるコラムにしていただいた。
デジタル媒体の場合、文字数制限を気にすることはあまり無い。読みやすさを考え、1ページあたりの文字数の目安を伝えられることはある。だが、長くなったとしても、2回に分けましょうと言われることこそあれ、全体を大きくカットされることはない。
作者が命を込めて書いた文章ならば、1文字でも削られることは絶えられない。デジタル媒体の柔軟性はその意味では評価される。だが、文字の、言葉の持つ重みがデジタルで軽くなっていることはないだろうか。
紙媒体の場合、ボリュームを一定量に押さえなければいけない編集者と命を込めて書いた文字が削られる作者との間で激しいせめぎあいが生じることがある。そのせめぎあいの結果、残された文字、すなわち凝縮された文字たちから輝きのある文章が生まれ、その文章が人に思いを伝える。
細野不二彦という漫画家の「アドリブシネ倶楽部」*1に次のようなせりふがある。
私たちが作ってるのは『映画』であって『映画の記録』じゃない。そして一本の映画の中でワンカットのフィルムが生きて輝ける場所はおのずと限られていて−その場所も与えられず、ただスクリーンにのせられただけのフィルムなんて不幸だと思わない? *2
まさしくそのとおりだ。映画の場合、実際には商業的成功も期待されるため、紙媒体における編集者と同じく、決められた時間に収まるかどうかは死活問題だ。時間が長くなると、1つの映画館で1日に上映できる回数が減ってしまい商業収入に大きく影響するからだ*3。
ネット上の文章にしても、いたずらに長いことをよしとするだけでなく、文章を構成する文字1つ1つが生きて輝ける場所をきちんと与えられているかを考える必要がある。
以上、自戒を込めて。