東日本大震災から10年

10年前の今日、東日本大震災が起きた。このブログ記事ではこの10年を振り返る。

2011年

3月

3/11の震災当日。1ヶ月前に行われたデブサミでのベストスピーカー賞を受賞していたことを知るなど、忙しく仕事をしながらも、周りの同僚やチームメンバーなどと普通に会話をしていたときだった。

本社から出張に来ていたPMとW3Cのスタッフと小さい部屋でミーティングをしていたときに地震が起きた。当時は六本木ヒルズの26階。ビルが倒壊するのではないかと心配する本社からの出張者にこのビルが倒れるようだったら、東京は壊滅だよと、不安を解消しようと声をかけたが、そう言いながらも自分でも不安だった。

地震が治まっても気持ち悪くなる感じの揺れが続いた。外に出ていた同僚がオフィスに戻れないと言っている。しかし、六本木ヒルズは丈夫だった。しばらくするとエレベーターも動き始め、一緒にミーティングしていた2人はホテルと自宅へと帰っていった。

NHKYouTubeに流し始めた中学生のおかげでオフィスにいながらニュースを見ることができた*1。ビルから下を見ていても人が溢れているし、Twitterでもあちこちの路線が止まっていることや駅が入場制限していることがわかった。入場制限が緩和されたかと思うと、それを知った人が殺到するということが繰り返し起きているようだった。こりゃ、しばらく帰れないなと覚悟を決めて、オフィスで情報収集に務めた。幸い、食材をかき集めてくれたカフェテリアスタッフのおかげで夕飯にもありつけた。

Twitterで情報を見ていると、渋谷まで歩けば、その後は公共交通機関で自宅までたどり着きそうとわかったのが午前2時。いろんな人から情報を提供して頂きながら、無事早朝の4時半に帰宅。携帯電話もメールも届かなかったので、初めて家族の無事を確認。

twilog.org

twilog.org

当時の自分のTwitterを見ると、記憶が蘇る。ソーシャルメディアに感謝。震災は金曜日だったので、その翌日と翌々日は休み。休みではあったが、本社との連絡やチームメンバーの状況把握などを行っていた。

当時は、Google Latitudeという自分の位置を事前に承諾したユーザーにリアルタイムで共有するサービスがあった。これで自分のチームのメンバーの位置を把握した*2

Twitterで業務連絡をしていて笑う。

実は、この最初の週末、震災の翌々日に、Twitterには書いていなかったが、横浜の赤レンガ倉庫にライブを聴きに行った。さすがにキャンセルだろうと思っていたのだが、来日していたHolly Coleはライブを行ったのだ。行くかどうか激しく迷ったが、結局は行った。その時の様子はしばらくしてからブログに書いた。

takuyaoikawa.blogspot.com

その後はあまりに目まぐるしく時が流れた。

ご存知のように、福島第一原発事故が起きた。翌週の月曜日と火曜日はオフィスに出社していたが、仕事どころではなかった。水曜日は海外に修学旅行に出ていた娘が成田空港に帰ってきたのだが、東京に不安を覚えていた私は帰国した娘をそのままピックアップして、妻の実家の九州に行くことにした。Googleはどこから働いても良いと言ってくれていたので、九州を選んだ。娘はなにが起きたかわからなかったようで、なんで自分だけ友達とは別行動になるのか不満そうだった。

その時の成田空港の状況は今でも思い出す。空港は外国人でプチパニックになっていた。空港までは早朝だったこともあり、タクシーで行ったのだが、降りると同時に外国人家族が我々が乗ってきたタクシーで第2ターミナルまで行きたい。ドライバーに頼んでくれと言う。ドライバーに聞くと、このまま都内に戻るので、乗せられないと言う。外国人家族にシャトルバスがあると伝えるも、いっとき争うのか、必死な形相でお願いだと言う。ドライバーもしぶしぶと認めて乗せていった。

ターミナルビルに入ると、あちこちに外国人が座り込んでいる。こんな光景は初めて見た*3。まるでクーデターが起きた国から逃げ出す人々のようだった。

 

九州へ移動する前後から、開発者コミュニティで被災地支援ができないかを計画し始めた。Hack For Japanという名前になるコミュニティだ。このあたりのことは以下のブログに書かれている。

www.hack4.jp

takoratta.hatenablog.com

Long story short,
コミュニティとしての支援のために、ハッカソンを行おうということになったが、首都圏は計画停電でとてもリアルイベントは難しそうなので、オンラインイベントと西日本でのリアルイベントを組み合わせることになった。震災の1週間後に京都リサーチパークで最初のハッカソンを行った。

togetter.com

そういえば、3月の下旬には台北にも行っていた。落ち着かない東京は避けたいし、かといって他の場所では開発のためのマシンなども準備しにくい。ひらめいたのは台北のオフィス。台北のエンジニアリングマネージャーに「10人程度行けるスペースを用意できるか?」と聞いたら、どうにかすると言ってくれた。自分も含め、何名かが台北から仕事をした。東京、福岡、京都、大阪、台北20日程度の間にいろんな場所を回った。

この震災ではGoogleの底力を感じた。この会社の社員でいて本当に良かったと思ったし、誇りに思った。

4月

その後もミーティングで支援方法を考えたりしていたが、被災地を見ないことには、ニーズを把握できないと、4/6の夜に東京を出発し、東北自動車道で宮城へ。途中、東北方面から来る車は自衛隊車か救急車で、災害の最前線に向かっていることを否応なしに理解させられる。

4/7に仙台から石巻などを視察し、東京から持っていった支援物資を配った。仙台に戻り、自治体や地元企業のヒアリングなどをした後、夜は東北の開発者の方々と顔合わせするために仙台の居酒屋で食事をした。そのとき、東日本大震災後最大の余震が発生した。

takoratta.hatenablog.com

5月

その後も精力的にHack For Japanによる活動を続けた。記録はサイトのブログ記事で今でも見ることができる。ミーティングは毎週のようにやっていただろうか。議事録もブログで公開し、それどころかミーティングはustreamで配信していた。

もちろん、Hack For Japan活動はあくまでもボランティア(プロボノ)活動。本業は続けた。

ちょうどこの頃からNHKプロフェッショナル仕事の流儀の撮影が始まったのではないかと記憶している。なので、番組には、Hack For Japan活動も触れられている。

5月には福島にも拠点をということで、会津大学の知り合いがいた会津若松を訪れた。その後、福島のITコミュニティであるエフスタとも繋がった。

6月~

夏には、ITで日本を元気に!という活動の一環で、仙台から女川や石巻南三陸町などを回った。

12月は復興庁の企画だったと思うが、Hack For Japanなどとの協力で再度石巻に向かった。池袋を深夜に出て、翌日の夜にはまた東京に戻るという強行軍。現地でボランティアの方々などと繋がった。

石巻には、この年は4月と8月と12月の3回行った。その後も数年間は、毎年2回から3回は行くようになる。1年経って見ると、最初から更地のように見える土地も、最初は津波の爪痕がしっかり残っていたり、車がひっくり返っていたり、それこそ一時はテレビで何度も放映されたタンカーが道を塞いでいたり、ビルの上に車が乗っかっていたりしたのを自分は見ている。匂いを嗅いでいる。その意味で毎年なんども訪れたことは、まるで定点観測しているかのような感情になったのを覚えている。

12月には今のMaker Faireの前身となるMakt Tokyo Meetingが開かれた。会津若松のG Clueの佐々木さんはHack For Japanのスタッフでもあったが、彼らとガイガーカウンターで出展した。

2012年

Googleの同僚から相談に乗ってやって欲しいと言われて紹介されたのが、イトナブの古山さん。なんかちゃらい兄ちゃんだなと思ったが、しっかりしていた。人を見た目で判断してはいけない。

itnav.jp

震災から10年で1,000人のエンジニアを輩出するという。とても良い目標だと思った。この年からしばらく夏は石巻ハッカソンというのが自分の中で必須イベントとなった。

takoratta.hatenablog.com

この時に教えた高校生ももう立派なエンジニアになっている。もう技術ではまったくかなわない。

そういえば、Yahoo! JAPAN石巻に開いた石巻ベースにもお邪魔した。(いつものことだが)記憶をなくすまで飲み、気づいたらYahoo!のTシャツを着ていて、眼鏡が壊れていた。

toyokeizai.net

2013年

Hack For Japanの活動はアプリやWebサイトの開発から開始されたが、イトナブを始めとする被災地の若年層へのIT教育にも手を広げていた。その中でわかったのは、被災地への支援は「開発」という枠組みだけでは足りないこと。むしろそれ以外での支援が必要なこと。そこで、かねてから情報交換などをしていたiSPP (情報支援プロボノ・プラットフォーム) と協同して、ITで震災復興や防災・減災に取り組んでいる個人や団体を集めた会議を開くこととした。ここで情報交換したり、協業が進めばと考えた。

それがIT×災害会議だ。

www.ispp.jp

www.itxsaigai.org

このIT×災害会議は2013年に1回目を開催した後、2015年まで3回の開催をした*4

2014年

世界銀行主催でRace for Resilienceというイベントが行われることになり、石巻が会場の1つに選ばれ、そこで審査員をすることとなった*5

raceforresilience.org

当日は大雪。東京でも大雪だったそうだが、石巻も1日目の夜から積もり始めた。翌日は会場である石巻商業高校に行くまでが一苦労。雪かきもハッカソンの一環だと冗談を言うも、当日に東京に戻ることは不可能となり、開き直って、夜ははちゃけた。

南相馬の小高に移住した森山さんと知り合ったのものこのときだ。東京の会社を辞め、京都かどこかで街づくりにでも関わろうかというようなことを言っていたので、その直前に南相馬の街づくりに参加してくれる若者はいないかと言っていたのがリンクした。「森山さん、南相馬に行くと良いよ」と酔った勢いで言ったのが本当に実現した。

しかし、当然いろいろと苦労があり、その後も(背中を押した責任もあって)ずっと応援している。

fukushima-hook.jp

石巻から帰れなくなったことを笑い話にする間もなく、同様のことがまたしても起きる。Hack For Japanスタッフの佐々木さんのいる会津若松で町をハックするイベントをRace for Resilienceの翌週に開催したのだが、これまた悪天候に襲われたのだ。

前日に郡山入りし、郡山の友人(主に、エフスタの仲間だ)と懇親を深めた翌日、始発の磐越西線会津若松に向かう。ところが途中で大雪のため長時間停止。どうなることかと思ったが、いつのも倍くらいの時間かかって、どうにか私は会場に到着。

当日東京から参加する予定だった方々は郡山で足止め。急遽駅ビルのスタバかどこかからリモート参加。初日が終わりかけたころ、郡山にいる人たちを会津若松市役所の職員が車でピックアップしに行ってくれるという。正直迷った。この雪の勢いでは、来たら最後帰れなくなるのはわかっていた。しかし、私はすでにその状態。どうせ足止めになるなら、仲間が多い方が楽しい。彼らを迎えに行ってもらった。

2日目の翌日、ハッカソンは無事進行。最後、イベントが終わるとともに、東京帰還イベントがスタート。郡山に行くよりも、新潟に出たほうが分がありそうというのがわかり、新潟まで車で送ってもらうことに。新潟はまったく雪がなく、最終の新幹線で東京へ。途中遅れはあったものの無事都内には到着。私は作戦ミスで上野で降りてしまい、最終電車との接続に失敗してしまったが*6

 

togetter.com

www.hack4.jp

2015年

2015年は、IT DART (情報支援レスキュー隊) を発足させた。これはHack For Japanの経験やIT×災害会議での議論を踏まえて生まれた、発災後の情報支援を行うための団体だ。自分は発起人および発足当時の代表理事となった。

IT DARTはその後、2016年の熊本地震から支援活動を開始。災害支援団体への後方支援活動やIT機器の手配など、さまざまな形での支援を行っている。

itdart.org

この年はHack For Town in Aizuも再度開催。

hack4.jp

あと、この年は自分が南相馬行きを進めた森山さんの元を訪れた。秋だったと思う。この年に常磐道が再開し、それで向かった。しかし、うかつなことにカーナビの地図が更新されておらず、途中のICで降ろされてしまう。普通ではない町並みがすぐに広がる。通行止めの封鎖ゲートがあちこちにあり、警官も立っている。引き返せと言われるのだろうと思っていたら、いけいけと指示を出される。ここでUターンするのも不自然なので、そのまま進む。このようにして意図せず、6号線を北上することとなる。結果、福島第一原発のすぐ横を通ることとなった。

ゴーストタウンというのはこういう町を言うのだろう。道路はあり、町もあるものの、そこに生物反応は無い。窓を締め、エアコンを循環に変えて急ぐものの、途中立っている警官はマスクもしておらず、普通の制服だ。

やっとコンビニなど人の気配がするところまでたどり着いたが、正直、嫌な汗が出っぱなしだった。

南相馬で森山さんに案内してもらったが、彼らにとっては、私の6号線北上の経験は日常だった。あちこちにピンクのリボンをつけた棒がある。なにかと思ったら、除染がまだ済んでいない土地だった。あちこちに線量計があり、そこが危険であることを示している。

震災から4年経ち、石巻などの他の被災地は復旧から復興へと確実にフェーズが変わっていたが、ここだけは時間が止まっていた。津波の被害がそのままの場所も多くあった。

小高地区ではその後、2016年3月と2017年1月にハッカソンを行った。2018年2月にも開発合宿を行っている。いずれも現地の高校生に参加してもらい、次代に繋げる形としている。

2016年~

ここ数年はあまり活動ができていない。

Hack For Japanは開店休業状態。これで良いと思っている。また必要になったら必要な活動を再開すれば良い。

IT DARTは精力的に活動しているが、私は理事も退任し、今は運営委員として関わっている。本業が忙しいこともあって、裏方に徹している。

石巻にはしばらく行けていない。夏の風物詩となっていた石巻ハッカソンは日程が変更になってから、タイミングが合わず行けていなかったのだが、昨年こそはと思っていたものの、あいにくのCOVID-19。

会津若松も毎年1回以上は行っていた。会津若松愛が通じたのか、2年前からパソコン甲子園の審査員に選んでいただいた。しかし、これもまた昨年はCOVID-19によりリモート開催。

web-ext.u-aizu.ac.jp

当初は毎年何回か訪れていた石巻会津若松も行けていないのは残念だ。COVID-19が収まったら、是非とも訪れたい。

 

以上、10年の記録として、これでもほんの一部であるが、残しておきたい。

*1:やがて正式にネットで同時配信されるようになった

*2:会社からそのように指示があったため。リアルタイムの必要は無いので、許諾してくれた人だけ

*3:それから8年後の2019年に、LCCで北海道に向かおうとしていた自分が台風で直前キャンセルになり、帰宅困難者となって同じ経験をすることになるとはそのときは思わなかった

*4:震災10年目の今年にまたイベントを企画中

*5:メンターだったかもしれない

*6:東京まで行けば、接続されたものと思う