電子書籍の先は
すごいぶっちゃけて言うと電子書籍のフォーマットとかどうでも良い。個人的には。
「スキームを変える - メディア、ジャーナリズム、文化」で書いたように、メディアやジャーナリストは本来の目的を達成するための最適な手段を用いるべきだし、我々は必要なものを得るための最適な手段が用いられればそれで良い。
今の時代に生きている限りフォーマットが変わることは避けられない。
年末の大掃除でやっと踏ん切りがついてフロッピーディスクを大量に捨てた。いくつかのデータは本来ならばサルベージしておいたほうが良かったのかもしれない。だが、本当に価値のあるものであれば、きっと世の中のどっかに拾われている。個人的なデータも本当に重要なものであれば、以前すでに吸い上げてCD-ROMやDVDに保存してある。写真などはFlickrにあげてある。
外部記憶装置も思えばいろいろなものがあった。デバイスの購入コストが安かったり、ランニングコストであるメディア代が安かったり、大容量や高速という利点があったり。私もDDSを持っていた。仕事ではMOを使っていたこともあった。あれらにかけた金は今となっては無駄以外の何ものでもないが、そんなのは当時わかるはずもない。
大事なのは中のデータが汎用的なフォーマットであることだ。テキストであれば、文字コードと改行コードくらいを気をつければ良い。これらは簡単に変換ができる。プロプライエタリなフォーマットの利用を控えるようになったのは最初に買ったリコーのデジカメはJPEGではなく独自のフォーマットで画像を吐き出していて痛い目にあってからだ*1。
話がずれてしまった。電子書籍の議論でもフォーマットは自分としてはどんなものでも良い。流行り廃りというと語弊があるが、時代によって使われるものが違うのは覚悟している。適切なタイミングで引き継げるフォーマットであり、異なるデバイスでも読めるようにリーダーソフトがどのプラットフォームでも提供できるものであれば何でも構わない*2。目的にあったものが迅速に手に入れば良い。くれぐれも独自フォーマットでがんじがらめになってあとでそれを読むためだけに捨てられないリーダーデバイスを数個も抱えるような事態になることだけは避けて欲しいが。
それよりも最近考えるのは、「本」という形態がいつまで続くかだ。
実際、iPhoneやiPad、Androidなどで流通されている「本」を見ると、プラットフォームベンダーの基盤に乗ってEPUBやAZWなどいわゆる電子書籍のフォーマットやPDFなどで流通させているものもあるが、通常のアプリケーションとして、App StoreやAndroid Marketで流通させられているものも多く見うけられる。
情報を流通させるという目的を考えれば、形態は「本」というテキストや画像中心のものではなく、音声や動画を必要とするかもしれないし、教材などであればインタラクティブな操作性が必要になるだろう。書き込めることや第三者とアノテーションを共有させる部分の強化が必要となるかもしれない。いずれにしろ、それは従来の「本」という形態を大きく変えていく。
こう言いながらも私自身にも疑問がある。果たして、このような「本」の発展形*3としての「アプリ」は利用者が望むものであろうか。
90年代初頭マルチメディアブームというものがあった。Macや富士通のFM Towns、それから少し遅れてWindows。これらのパーソナルコンピューターで音楽や動画が個人でも楽しめるようになったころに、マルチメディアタイトルと呼ばれる、まさにテキストと音声、画像、動画などを組み合わせ、対話性も持たせたCD-ROMタイトルが流行った。私もいくつかそれらのCD-ROMを購入し、自宅で楽しんだ。それらのいくつかはCD-ROMという形態ではなく、オンラインのサービスとして発展したものも多い。英語教材などはその例だろう。だが、マルチメディアタイトルというのはもっと1つ1つがエディションとして完結しており、まさに次世代の書籍のようなものであった。
マルチメディアタイトル
文字や動画、音声、静止画、3次元グラフィックスなどを統合して製作されたデジタル著作物。CD-ROMなどのパッケージに納められて完結した内容のものを指す場合が多い。
これらは一時的には流行したものの大流行には至らなかった。Windows 95の登場やパーソナルコンピューターへの高性能なグラフィック機能の搭載という追い風があったにも関わらずだ。統計データは見つからなかったのだが、Google検索で「マルチメディアタイトル」をタイムラインで見てみても、2000年代に入ってからあまり語られていないのがわかる。
統計データが無いので、普及しなかったと言い切ってしまうのが良いかわからないのだが、そのように仮定すると、その理由はなんだろうか。考えられるのは、利用者がシンプルなものを望んだという可能性と制作コストだ。単にある情報を欲しいという場合、対話型であったり、派手なスプラッシュ画面が出てくるものであったり、装飾過多なものはかえって邪魔である。マルチメディアタイトルがそのようになってしまっていた可能性もある。制作コストが高いのはそのとおりだろう。それに見合うだけの収入が得られなければ、当然そのようなコンテンツは減っていく。
では、マルチメディアタイトルの商業的な失敗から「本」はあくまでも「本」の形態としてデジタル/ネット時代も維持されていくと言えるのだろうか。
私はそれでも「本」の形態は変わり、それは「アプリ」に近づくと思う。何故なら、どんなに電子書籍のフォーマットが今ある本のニーズをくまなく取り入れようとしてもそれを超えた表現をしたい制作者は出てくるであろうことと、そして利用者としてもいわゆるアプリとしてではなくても複数の表現方法で情報を得たいと思うニーズが確実にあるからだ。オーディオブックと電子書籍とのハイブリッド化のように汎用の電子書籍フォーマットに取り入れられるものもあるだろうが、制作者と利用者のニーズはもっと多岐に渡る。たとえば、地理情報に連動させたものなどはすぐに考えつく例だ。
と思っていたら、EPUBで地理情報を使うという話はすでにあるようだ。
- ブログでの説明: Threepress Consulting blog: Geo-aware ebook demo
- デモ: Geo ebook demo - Gearsを使っているようだ。
EPUBにHTML5/CSS3/JavaScriptで実現しているようで、Interactivity in EPUBにもっと汎用的なEPUBで対話性を高めることについての話を聴くことができる。
EPUBのような電子書籍フォーマットで実現されるか、それともアプリとしての形で実現されるかわからないが、いずれにしろ「本」の形態を超えたものが出て来ているのは事実だ。マルチメディアタイトルで成し得なかった夢ふたたびなのかどうかわからないが、もはや電子書籍を語るときに既存の「本」にだけこだわり過ぎるのは止めて良いのではないだろうか。
「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」
これは私の敬愛する吉田拓郎氏の古いアルバムだ。正確なタイトルを確認するために検索してみたら、なんときっこのブログがひっかかった。
‥‥そんなワケで、衆院選での自民党のボロ負けを早くから予言してた季刊誌の「SIGHT」では、今年の春の39号の「自民・民主の先が見たい」って特集で、渋谷陽一さんが田中秀征さんのインタビューを担当してるんだけど、田中秀征さんは、こんなことを言ってる。
「自民党は老朽住宅、民主党は仮設住宅、どちらかに永住しろと言われても困る。」
あたしは、思わず、「お〜い山田く〜ん! 田中さんに座布団一枚!」って言いそうになっちゃったほど、ホントにその通りだと思った。だからこそ、あたしは、民主党っていう頼りない仮設住宅に、オムライス党っていうちゃんとした柱を連立させて、耐震強度を高めなかったら意味がない‥‥ってことを連呼して来たワケだ。ま、その話は置いといて、この田中秀征さんの「自民党は老朽住宅」って表現は、まさしく、吉田拓郎の「古い船」とおんなじだと思った。
「古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう〜古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう〜なぜなら古い船も新しい船のように新しい海へ出る〜古い水夫は知っているのさ新しい海のこわさを〜」
だけど、自民党っていう「古い船」は、「新しい水夫」を選ばなかった。モリヨシローしかり、アベシンゾーしかり、フクダちゃんしかり、フロッピー麻生しかり、自民党が一党独裁だったころの過去の栄光から目が醒めない、化石のような思考回路の「古い水夫」ばかりが残った自民党丸は、あとは沈んでくだけだ。河野太郎あたりの「新しい水夫」が総裁になって、モリヨシローやアベシンゾーやフクダちゃんやフロッピー麻生たちを粗大ゴミとしてトットと処分しちゃえば、自民党も何とか復活できたかもしれないけど、その可能性もなくなった。あとは誰が総裁になっても、今までと何ひとつ変わらない「古い水夫」ばかりの「古い船」であり、来年の参院選で完全に海のモズクになり、三杯酢でチュルチュルとすすられちゃうだろう。
‥‥そんなワケで、吉田拓郎の「イメージの詩」より6年も前、今から43年も前にリリースされたボブ・ディランの「時代は変わる」では、時代が変わる時の民衆のパワーのすごさについて、1番でみんなに泳ぎ出すように進言し、2番でマスコミのアホどもに進言し、3番で国会議員の腰抜けどもに進言し、4番で国中の大人たちに進言してる。3番は、「国会議員たちよ、肝に銘じておけ。ドアの前には立つな。ホールの入口をふさぐな。ぐずぐずしていると大ケガをするぜ。今、外では激しい戦いが繰り広げられている。すぐに国会の窓を震わせ壁が鳴り出すだろう。時代が変わりつつあるのだから」って感じの歌詞だ。これが、政権交代を余儀なくされた民衆のパワーであり、そのパワーの源は旧政権に対する怒りなのだ。そして、これほどの怒りの原因を作っていながらも、1ピコグラムも反省しないばかりか、「悪いのは国民どもだ」とでも言いたげなフロッピー麻生のひん曲がった口を見てると、草葉の陰から「ダメだこりゃ!」っていう、いかりや長介の声が聞こえてきそうな気がする今日この頃なのだ。
出版社の状況と重なって見えるのは気のせいか。あまり一形態に過ぎなかった本や新聞、雑誌などの活字でのルールや流通形態を維持することにこだわり過ぎて、新しい海に出るためにもっと大事なことを忘れてはいけない。